島 しま シマ SHIMAめぐり Is.011 友ヶ島

島 しま シマ SHIMAめぐり Is.011 友ヶ島

友ヶ島 ともがじま 人口0人 (和歌山県和歌山市)Wikipediaから江戸時代において、紀州藩の藩主であった徳川頼宣の命令を受けた紀州藩の蘭学者、李 梅渓(り ばいけい)が虎島内に葛城修験道における5つの「行場」を書いた文字を彫った。これを「五所の額」という。現在もその跡が残っている。なお、修験道の山伏修行では今でも虎島にあるこれらの行場へ向かい、断崖絶壁の崖を上り下りして修業を行なう。明治時代に大日本帝国陸軍により、外国艦隊の大阪湾への進入を防ぐ目的で、沖ノ島内5箇所と虎島に砲台や防備衛所が造られた。第二次世界大戦までは要塞施設として一般人の立入は禁止され、当時の地図や地形図にも白く塗りつぶされて記載されなかった。島内の遊歩道に道幅の広い部分が多いのは、砲台などへ通じる軍用道路として開削されたためである。後の第二次世界大戦は航空戦主体となり、対艦用に造られた砲台は使用されることのないまま終戦を迎えた。戦後は友ヶ島全体が瀬戸内海国立公園に指定された為、終戦時に爆破処分された第2砲台以外は軍事施設跡が比較的良好な状態で残っている。第3砲台は映画や雑誌などのロケで使用されることがあり、2003年には土木学会選奨土木遺産に選ばれた。1951年に郵政省(現在の日本郵便)が「観光地百選」シリーズのひとつとして沖ノ島を描く24円切手を発行している。瀬戸内海国立公園に指定されてから南海電鉄グループにより観光開発が行われた。系列の南汽観光により加太港 - 沖ノ島間の航路が開設され、キャンプ場やバンガロー村として夏場は賑わっていたが、2000年頃には観光客数が最盛期の1/5まで減少したため、南海電鉄は2002年3月末に全ての友ヶ島観光事業から撤退した。今でも島内の何箇所かで電灯柱にて「南海」の表記や看板などにも南海電鉄の文字が見受けられる。南海電鉄の撤退後、航路を(有)友ヶ島汽船が引き継ぐが、これも2006年12月17日に廃業。その後、加太漁業協同組合が人員や船などを引き継いだ法人を設立し、「友ヶ島汽船(株)」として運行している。

http://www.nicovideo.jp/watch/sm44707705