山城しんごの城めぐり 県指定史跡 都乃郡城(宮崎県西都市)

山城しんごの城めぐり 県指定史跡 都乃郡城(宮崎県西都市)

Wikipediaページより都於郡城は南北朝時代から安土桃山時代にかけて日向国に割拠した伊東氏の城の一つ。建武2年(1335年)、足利尊氏より都於郡三百町を賜って日向国に下向した伊東本宗家の伊東祐持による築城と言われている。後にこの都於郡城を本拠として、勢力を拡大することになる。祐持の子・伊東祐重の代に大修築が加えられた。『日向記』によれば、「夫より都於郡を経営せんとて弥(いよいよ)家風を定む。大形の指図様体究って、先普請に可入。具足或(あるいは)鍛冶番匠を召集め夜を日に続て急ぎけり。弥精力を励まし吉日を撰て御移住なり。其外、先規の如く馳集(つどい)て門前に市をなす。近習、外様、馬廻以下の屋敷割有しかばさしもに広き山上山下も更になかりけり」とある。城は戦乱や失火によって4度も火災に見舞われたが、文亀4年/永正元年(1504年)3月5日の大火では、城中からの失火によって城外まで延焼し、建物器物の大半を焼失したこともあった。伊東氏は後に日向国の大半を領して、伊東四十八城と呼ばれる48の城を持ったが、都於郡城は佐土原城とともにその本城として繁栄する。 天正5年(1577年)に、伊東氏が島津氏の侵略により一時的に衰退すると都於郡城には島津義久が入城し、豊臣秀吉の九州征伐、高城の戦いにおける前線基地となったが、豊臣秀吉により島津氏は根白坂の戦いで完敗し日向国から放逐され、都於郡城は戦後に城主不在となり、事実上の廃城となった。江戸時代に入ると伊東氏は那珂郡の飫肥城(宮崎県日南市)を本拠とし、飫肥藩主として繁栄した。元和元年(1615年)、江戸幕府の一国一城令により都於郡城は正式に廃城となった。2000年(平成12年)9月6日に国の史跡に指定され、2001年(平成13年)より整備に伴う遺構確認調査が実施されている。また、都於郡城にて生誕した伊東マンショ(祐益)を記念し「伊東満所像」が設置されている。

http://www.nicovideo.jp/watch/sm44833337