せめて安らかに - 白玉美月

せめて安らかに - 白玉美月

ささやかな都会の公園では、砂場はつねに戦場である。 砂場にあつまる人間たちにとって、すべり台やブランコなどはそもそも眼中にない。それらの遊具は、遊びかたが限定されているからだ。 すべり台の形をぐにゃりと曲げることはできない。普通ではない遊びかたをするにしても、うしろ向きですべるとか、逆から登るとかくらいしかない。 ブランコも、ジャングルジムも、みんなそうだ。まったくつまらないやつらである。そんなふうな、融通のきかない遊具たちと、いったいどうやって遊べというのか。 その点砂場はすばらしい。かなりのところまで自由が保障されている。なにしろ形が変わるのだ。掘ってもいいし、撒いてもいいし、ブレンドしてもいい。なんならちょっとくらい食べたってかまわない。 けれども砂場の欠点は「順番」が機能しないことである。他のおおくの遊具では、遊びかたに制限があることで「順番待ち」ができる。 すべり台についていえば、いちど滑ればいったん「遊んだ」ことになる。もういちど遊びたいときは、階段のほうへぐるっとまわって、順番待ちの列にならぶ。何回すべったのかを数えることだってできるのだ。 しかし砂場にはそれがない。砂場での遊びに終わりはない。すくなくとも、砂場のほうから終わらせてくることはないのだ。むしろ砂場は、私たちが飽きるまで、遊びつづけることを強制する。 それでいったいなにが起こるかというと、砂場で遊ぶ人間たちは「領土」に敏感になる。彼ら彼女らはそこに定住するからだ。鉄棒やジャングルジムなどをすぱすぱ移動し続けるようなやつらとは違うのである。 定住するばあい、自分と他人との位置関係を常に考えなければならない。あっちの彼はショベルカーのおもちゃを走らせていて、こっちの彼女はスコップで穴を掘りつづけていて、このままだと私のほうまで到達しそうであるので、それでは私はこっち向きにこれくらいの大きさの山を作ろう、といった具合に。 かくのごとく、砂場においては、みなが思いおもいに遊んでいるように見えながら、じっさいには静かな戦いが繰りひろげられている。 だからはっきりいって、砂場はきゅうくつだ。せっかく公園に遊びにきたというのに、他人のことを意識してばかり。これでいったいどうやって羽を伸ばせというのか。 それならば、砂場から撤退すればいいじゃない、と人は言うだろう。たしかにそう言いたくなる気持ちはわかる。 さっき私は砂場のことを「かなりのところまで自由が保証されている」としたけれど、それは自分ひとりしかいない場合の話であって、ほとんど夢物語だ。 真の自由を求めるのならば、砂場には近づかないほうがかえって賢明だろう。 人だらけの砂場を目にするたび、幼い私は落胆したのであった。ああ、きょうも自(文字数超過です、全文はYouTubeで https://youtu.be/s-TKAS_e3Vk

http://www.nicovideo.jp/watch/sm45073074