前回までで『全体性と無限』の内容は一通り扱いましたが、今回はここまでで抜けていたな、と思ったポイントとして「無限責任」と「許し」について少し補足した後、後期の著作『存在するとは別の仕方で』の時間論について講じました。後期レヴィナスは「隔時性(diachronie)」という概念を唱え、私と他者の関係を「時間的隔たり」として記述しますが、もちろんこれはSF的な話ではなく、「気づいたときにはすでに、私は他者に対して取り返しのつかない責任を負っている」ということを示す表現です。このレヴィナスの立場の特徴を浮き彫りにするため、現代の分析哲学者である青山拓央の「客観的現在と心身相関の同時性」(『〈現在〉という謎』収録)にある議論と比較してみました。青山氏は「私と同じ現在にある他者の存在をどうやって保証できるのか」を問うている、これに対してレヴィナスは「他者は存在を保証すべきものではない、私と他者は同じ現在にはいない」と主張する――この対比でレヴィナスの「他者」論の特徴が鮮明になるのではないか、と考えたわけです。青山氏の議論についてはずいぶん厳しく言いましたけれど、「論理的に不可能ではない」というだけの可能性をいちいち論じて、そのような懐疑まで全部払拭しないと……というタイプの「哲学」には、私はついていけませんので。