(字数制限による省略)幹線道路沿いの最寄りのバス停で下車したのが午前8時頃であり、このとき、天候はまだ小雨程度でしたが、その後、現地の気象台から暴雨黄色・橙色警報が発令されたようです。思い返せば、2016年に福建省の土楼地域においても大雨に見舞われたことがありましたが、今回はさらに雷も伴っているので、時々、建物の軒下でスマホを操作して、配車アプリも試したりもしてみましたが、やはり、この天候では外出する人は少ないのでしょう。また、場所が場所ですし、リスクもありますので、目的地である双煙村までは、バス停から直線距離で8km程度、実際には10km余りの距離がありますが、激しい大雨と雷鳴となる中を徒歩で目的地に向かいました。雨量が大きく、雨水の浸透や温度変化により、レンズが曇ってしまって、撮影に影響があったので、編集時には、一部の写真に簡単な調整を行いました。また、後日には、鞄の中に入れていたラオスの紙幣に黒カビが生え、パスポート上のラオス出入国スタンプもかなりぼやけてしまっていました。話を元に戻すと、道中、目にするのは、やはり、山と茶畑で、茶工場もありました。十八渡大橋では、風が強く、紛失してしまった丈夫な傘に代わって前日に急遽購入した安物のビニール傘は骨格が折れてしまったりしました。さらに進んで行くと、双煙村の入口に、「中国伝統村落│抗戦双煙歓迎您」との大きな看板がありました。現在は観光地として、旅行客の到来を歓迎しているようなので、本当に良かったです。この頃には、雷雨はもう収まっていました。復路は船便を予定していて、時間的に余裕はなかったので、ごく一部しか廻れませんでしたが、それでも、当時、弾薬充填、軽機関銃製造、機械修理等が行われていた兵器工廠跡地に赴き、その付近の山裾に、今でも現存する多くの防空壕を目にすることができました。防空壕は人工的に掘られたものが多く、旧日本軍による空襲時の避難場所や臨時の物資貯蔵場所として利用されたようです。また、空襲による破壊を免れて現存する唯一の歩哨所があり、その隣にある尹初公祠(尹氏宗祠)も空襲によって大部分が破壊されましたが、その後、再建されて、現在は博物館として利用されています。残念ながら、当日は開いていませんでした。双煙村という村名の由来となった蒸気機関発電用の煙突も空襲によって破壊され、台座部分のみが遺構として残っていました。他にも、手榴弾を製造していた作業場の遺構等があるようです。歴史をさらに振り返ってみると、民国政府第十一兵工廠の前身は、袁世凱統治期の北洋政府によって設立され、民国政府の四大兵工廠の内の一つであった軍政部兵工署孝義兵工廠(鞏県兵工廠)であり、日中戦争の勃発により、立地する河南省鞏県孝義鎮では地理的リスクがあるため、各地を移転する中で、この地に(字数制限による省略)