誰も知らない南朝皇子の隠された墓…山奥に残る雛鶴姫伝説の真相〜山梨県上野原市「雛鶴神社」〜

誰も知らない南朝皇子の隠された墓…山奥に残る雛鶴姫伝説の真相〜山梨県上野原市「雛鶴神社」〜

大塔宮護良親王が足利直義の手の者により弑逆(臣民が皇族を殺害さる大逆罪)された一部始終を現場にて目前で目の当たりにした女性がいる。十津川郷の有力豪族・竹原八郎の息女・滋子だ。後醍醐天皇による笠置挙兵に呼応し、金峰山寺にて挙兵した護良親王は多数に及ぶ鎌倉幕府軍に包囲され、密かに十津川に落ち延び再起の時を計ったが、十津川滞在の間、親王を匿ったのが竹原八郎であった。そして、滞在期間中に竹原八郎の息女・滋子を妃とし、以来、鎌倉で最期を遂げるまで彼女を傍に置いていた。親王の寵妃となった滋子は「南の方」と呼ばれた。彼女を祀る神社は山梨県の山中に2箇所存在するので、一社ずつ紹介する。一社は山梨県上野原市秋山村無生野に鎮座する雛鶴神社(相殿として葛城神社)。雛鶴神社の祭神は大塔宮護良親王の侍妃・雛鶴姫、葛城神社の祭神は護良親王皇子・葛城宮綴連王。平成元年十月 本殿、拝殿再建。建武2年(1334)7月、護良親王は鎌倉(鎌倉宮)に於いて、足利直義が放った刺客・淵辺義博によって弑逆、悲運の最後を遂げられた。淵辺は目を見開き太刀を咥えて憤怒の形相で絶命された護良親王の御首級を恐しく感じ、思わず叢に投げ捨て逃亡。お傍で一部始終を見ていた南の方は当時身重であった。惨劇後、悲嘆にくれておられたが、やがて心をとり直し、淵辺が投げ捨てていった御首級を拾い上げ、従者と共に御首級を抱いて鎌倉を出立され、相州下柏尾(現在の横浜市戸塚区柏尾町)の四つ杭の井戸で首級を清めてから成正寺で供養し、次いで串川村(現在の津久井郡津久井町青山)の光明寺に立寄り、更に川合という地に休んでから甲州秋山に入り、桜井の裏山王沢から古福志の四つ堂に7日間逗留。この逃避行の間に従者が死去。従者の為の弥陀堂を建てて休息の後、ここ無生野の里に辿りついたのはその年の暮れであった。そこで産気づいた南の方は12月29日皇子を出産されたが母子共に死亡された。村民は悲運に同情し、南の方を「雛鶴姫」愛称して厚くこれを弔い、門松を取り払い櫁の枝を立てて冥福を祈った。それから数年の後、護良親王の皇子・葛城宮綴連王が吉野の賀名生の変後、諸国を遍歴して本村に落居。村民から雛鶴姫親子の話を聴かれ不思議な因縁を感じられ、この地に住み一子五孫の繁栄を見て天寿を終えられた。村民は三人を神として祀り、今日まで祭りを続けておられる。護良親王、雛鶴姫、綴連王、御三方の追福のために始められたという無生野の大念佛は念佛踊りの原形を良く留めるものとして尊重され、山梨県の無形文化材に指定(後に平成7年12月、国の重要民族文化財に指定される)され、正月、7月の各16日に連綿として行われ継承されている。

http://www.nicovideo.jp/watch/sm45733593