【夕刊シチ デイリー両晋南北朝 1月28日号】305年10月~306年08月

【夕刊シチ デイリー両晋南北朝 1月28日号】305年10月~306年08月

資治通鑑原文3483文字(121/365位)【登場人物】・メイン 1/1-司馬衷-1/29 1/1-劉淵-2/2 1/12-劉琨-2/10 1/4-慕容廆-2/26 1/17-拓跋猗盧-2/8 1/26-王導-3/5 1/27-石勒-2/26・準メイン 1/11-司馬熾-2/4 1/21-王敦-2/16 1/23-張軌-2/6 1/13-司馬越-2/2 1/25-李雄-2/27 1/25-陶侃-2/27 1/26-劉聡-2/10 1/26-劉曜-2/22 1/27-司馬睿-2/15【できごと】各地擾乱! 内輪もめの場合か! いよいよ越に迫られ、顒はなんとか懐柔しようと試みます。洛陽にて恵帝を拉致した人物を処刑し、その協調の意を示そうとしたのです。しかし、ここでも越は拒絶。王浚からレンタルした猛将、祁弘の驍武を頼りにずんずん長安にむけ、進軍しました。 この状況が、あまりにも外患の手助けになると憂慮する人物がいました。荊州を守る、陶侃の師、劉弘です。顒や越に宛ててものした手紙、その要旨は「今それやってる場合じゃないでしょ、あんたたちがいま手を取り合わないでどうするんですか?」でしたが、結局どちらもがスルー。どうしようもないです。このため劉弘は、おそらく、苦渋の決断でもあったのでしょう。顒と越のどちらがましかを見比べ、まだ後者と判断。越に肩入れしました。これはもはや八王の乱における、最終的な勝敗の確定と呼んで良いでしょう。まあ、今更八王もクソもありませんが。 追い詰められた顒は洛陽の守りとして穎を派出します。守りを、というよりはほとんどとかげの尻尾切りです。 とはいえ劉弘の言う通り、この状況はあまりにも北に対して無防備。そこで劉琨が動きます。洛陽を出て、越に礼節を示しつつ、幽州に出ました。これで王浚に並び、劉琨が北よりの守りとして拠点を築いたことになります――もっとも劉淵はこの時、すでに劉琨の拠点よりも南下していたのですが。進軍する劉淵の前に立ちはだかる晋将らにも、おそらく名将と呼ばれるに値する人物はいたのでしょう。しかし、まともに名前が残っていません。基本的には「なすすべもなかった」ということなのでしょう。 北がもろもろヤバい中、南もヤバい。陳敏は自身が挙げた武功をかさに増長。しかもたちの悪いことに、越がこの増長を支援してしまいました。こうして、自身こそが南方の主としてふさわしいとまで思い込んだ陳敏は周辺地域を襲撃しはじめます。この事態を受け、陶侃が出動。戦役が始まりました。

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