資治通鑑原文1701文字(251/365位)【登場人物】・メイン 1/4-慕容廆-2/26 1/26-王導-3/5 1/27-石勒-2/26 2/3-石虎-3/14 郭璞-2/17・準メイン 1/21-王敦-2/16 1/25-李雄-2/27 1/25-陶侃-2/27 1/26-劉曜-2/22 1/26-司馬睿-2/15 2/8-司馬紹-2/18 2/10-李寿-3/9 2/11-蘇峻-2/21 2/12-張駿-3/12【あらまし】 この年、東晋武力の象徴たる祖逖が死亡。結果、いよいよ王敦の野望を妨げるものがいなくなり、乱勃発の流れが加速していきます。【できごと】 ここまでの流れを見ていると、王敦には陶侃や祖逖レベルの武勲を残した気配はありません。もちろんこれは史書が意図的に王敦の武勲を隠蔽した、とも解釈しうるのですが、少なくとも「巨大な流れを食い止めきった」功は感じません。そのうえで、自身の功績を元帝が軽んじた、と憤った。まあ陶侃や祖逖にしてみればどの口で案件ですね。けど、この口です。なぜなら琅邪王氏だから。 折悪しく、このタイミングで祖逖が死亡しました。その軍部を継承する弟の祖約は凡才、建康周辺もグダグダ。憂悶の末の死亡、と言っていいでしょう。 では祖逖の死が何を意味するか。石勒にとっては、南の憂いが大いに軽減された、となります。ここで石虎を派出し、段部を攻撃。壊滅的な打撃を与え、ほぼ制圧しました。もちろん完全に滅亡したわけではないのですが、この段階では、石勒に抗える力を喪失します。つまり、いよいよ慕容部と隣接するようになった、と言えます。 一方で慕容部ですが、この頃、高句麗からの攻撃を撃退したと書かれます。ただしここはあまりストレートに受け取るわけにも行きません。三国史記、つまり高句麗の史書には、頻繁に慕容廆が領域を侵してきていた、と書かれているのです。このあたりはどちらがどう、というよりも、お互い様という感じだったのでしょう。 この年、東晋きっての占術師であった郭璞が、太陽に黒い点が見えた、と報告しました。また霊山である終南山や常山で崩落が起こったとも記録されます。大体は翌年の予兆、ということでしょう。王敦の動きもあり、王導もいよいよ本格的に遠ざけられるようになりました。ただこの扱いは王導のマブダチとも言うべき周顗をはじめとした臣下らよりの諫言もあり間もなく取り消されております。とは言え元帝と王氏との緊張感は臨界点。このため翌年、ついに王敦が決定的な動きに出るのです。