【325年09月】資治通鑑原文1457文字(272/365位)【登場人物】・メインキャスト 1/4-慕容廆-2/26 1/26-王導-3/5 1/27-石勒-2/26 2/3-石虎-3/14・準メインキャスト 1/25-李雄-2/27 1/25-陶侃-2/27 1/26-劉曜-2/22 2/10-李寿-3/9 2/11-蘇峻-2/21 2/12-張駿-3/12 2/14-慕容皝-3/14 2/14-拓跋什翼犍-4/13【できごと】 先に北方の話をしておきましょう。石勒にべこべこにされた段部を慕容廆が支援、その勢力を回復させました。拓跋部では拓跋賀傉が死亡、弟の拓跋紇那が立ちました。この両名は拓跋猗㐌系で、拓跋弗系の拓跋翳槐と対立、再び内紛が起こります。あと石勒はお忍びで夜間徘徊をしたら町の役人につかまり、「こいつは職務に忠実だ!」とほめたたえています。 これ以外の内容は、全部東晋のいざこざです。成帝が立ったわけですが、なにせ当時五歳。まともに政務など取れるはずもありません。このため明帝皇后、つまり庾亮の妹である庾文君が皇太后として政務の取り仕切りにつくことになりました。言い換えれば庾亮が権勢を握った形です。王敦の乱のおかげで王導は大いに存在感を宮中から消す方向で動いていました。そうなると政務の方針は庾亮次第となり、そしてこれが、悪い意味で厳格でした。 この厳格さには、一名の能吏もいっちょ噛みしています。彼の名は卞壼。その性格は極めて剛直であり、誰もが卞壼からの糾弾に怯える状態に。庾亮との直接の絡みはあまり書かれてもいませんが、おそらく両名の相性はかなり良かったことでしょう。 さて、この庾亮。お国のために謹厳に職務を全うする、だったらまだよかったのですが、残念ながらパワーゲームも大好きでした。荊州を厳しくも確かに統治し、成とも切った張ったを繰り広げている陶侃が反逆をもくろむのではないかと疑い、その監視として温嶠を建康と荊州の中間、武昌に配します。さらには祖逖の弟である祖約を国政から締め出して不満を募らさせました。これで祖約に蘇峻と組まれてはことだ、などと言い出すのですから、なかなか、なかなかです。 こうした状態を見て、竹林七賢の阮咸の子である阮孚は「この国早くもやばくね?」とばかりに広州刺史、即ち東晋南限の長官の座を求め、そこで死亡しました。うーん、ザ先見の明。