【330年06月】資治通鑑原文820文字(331/365位)【登場人物】・メインキャスト 1/4-慕容廆-2/26 1/26-王導-3/5 1/27-石勒-2/26 2/3-石虎-3/14・準メインキャスト 1/25-李雄-2/27 1/25-陶侃-2/27 2/10-李寿-3/9 2/12-張駿-3/12 2/14-慕容皝-3/14 2/14-拓跋什翼犍-4/13【できごと】 前趙滅亡の動乱のスキを突き、張駿が領土奪回を果たします。後趙としては東晋や慕容に注力したいところでしたので張駿に官位を贈り懐柔を試みますが、失敗。ただし張駿も、後日には羌族の反乱の余波を恐れ臣従の使者を送ってもいます。張駿の絶妙な外交バランスが見え隠れしています。 後趙では、石勒がついに皇帝の座に就きました。「東晋の権威なぞもはやクソである」と改めて布告した形です。ただ、そんな石勒には重大な悩みがありました。後継者の石弘が柔弱であったことです。徐光などはむしろ「武で天下を収めたあとには文にて整える必要がある」と石弘の資質をたたえましたが、一方でこうも言います。「なお、この転換における最大のリスクは石虎です」。石勒もそこを理解してはいましたが、結局石虎を放逐はできませんでした。これがどのような結果を招くかは、未来がまざまざと示すところです。 そんな後趙ですが、軍事的には絶好調です。以前石勒が保持を諦めた襄陽に進出、獲得しています。また成の李寿が東方に進出、巴東を陥落させています。東晋が明らかに内乱の後始末に追われていて、外敵の対応にまで手を回しきれていなかったのをつかれているのが見えます。 一方で東方、呉のエリアを襲撃した後趙軍は郗鑒により撃退されているのですが、ここで撃退を果たした地域は長江を渡ってかなり南下した地点でした。というのも、このとき後趙軍は水軍を確保しており、長江渡河というリスクを負うことなく東晋の海浜エリアを襲撃することが叶っていたのです。後趙水軍がそのまま拡充されたとしたら、こちらもかなり危うい事態となったことでしょう。東晋において蘇峻の乱は、つくづく国体解体ギリギリまで追い込まれた事態だったのだ、と痛感します。この年、蘇峻討伐に当たっての論功行賞がなされましたが、功臣らが次々と栄達を果たす中、庾亮だけはこうした特典を辞退しています。まぁ、庾亮については蘇峻の乱の原因そのものとも言えますし、さすがに罪の意識が咎めた、と言ったあたりなのでしょうか。 全体的に、この年は小康状態、とは言えそうですね。