【夕刊シチ3月21日号 355年02月】苻生即位! 前秦、嵐に

【夕刊シチ3月21日号 355年02月】苻生即位! 前秦、嵐に

【355年02月】資治通鑑原文2834文字(157/365位)【登場人物】・メインキャスト 3/4-慕容垂-5/3 3/8-桓温-4/9 3/14-王羲之-3/28 3/20-王猛-4/11 3/15-苻堅-4/22・準メインキャスト 2/14-拓跋什翼犍-4/13 2/28-慕容儁-3/26 3/17-姚萇-5/1【できごと】 桓温侵攻時に将軍として戦った苻生は、戦死した苻萇の弟。武勇に優れ、かつ粗暴であり、祖父の苻洪から殺されかけもしたせいでだいぶ性根がねじ曲がった、「そうです」。そんな苻生が、おそらく桓温侵攻や弟死亡の労苦による苻健死亡を受け、即位しました。このとき苻健からは何人かの後見人がつけられたのですが、同時に「命を聞かないやつは除いていけ」とも言われたそうです。ということで苻生、後見人たちをもりもり除きました。「命もろとも」。なおこのとき突然司馬光さんが乱入して「後継者の後見を任じながら当の後継者に疑念の種を植えるとは何事か!」と激怒しています。このあたり、北宋に関するなにかを横目で見ていそうな雰囲気もありますね。なお苻生はその後も占いに基づいて皇后や大臣を殺害したりと、即位早々暴君ボーナスの加点に余念がありません。 次に紹介することの原因としては、苻生の即位と言うよりも、関中動乱及び桓温侵略の余波を受けた、とするのが正しいのでしょう。関中より外の前秦の影響力が下がると、前燕の伸長が甚だしくなります。特にこのとき青州、いわゆる斉の地には段部残存勢力である段龕が割拠していました。そこで慕容恪が出撃し撃破。当時有数の堅城であった広固城に追い込みました。 前秦、東方の影響力が低下です。では西方はどうだったでしょうか。前涼を簒奪した張祚が、幽閉していた張耀霊を殺害後、今度は自分自身が討ち果たされています。あとには張重華の別の子、張玄靚が立てられます。ただし、当時七歳です。もはや摂政に牛耳られる未来が確定です。 一方殷浩と桓温による、ぱっとしない戦果が続いた東晋では、司馬昱の兄、司馬晞が不穏な動きをし始めているとの噂が立ち始めます。これを司馬昱は一笑に付すのですが、桓温が東晋内で存在感を大きくしているときにこの話ですから、どうしてもきな臭さを感じずにはおれません。よりにもよっての元帝の息子たちにまつわる嫌な噂、東晋ではいったいどう響いていたことでしょうか。

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