黒田長政(ダミアン)は、家康から与えられた白紙の手形を懐にねじ込み、水を得た魚のように西軍への調略(裏切り工作)を開始した。まずは、西軍の総大将・毛利輝元の先鋒として陣を張っていた、吉川広家(きっかわひろいえ)の陣屋への極秘の接触である。「……広家殿。三成の神輿(みこし)なんぞ担いで、一体何の得があり申すか」長政は、広家の前に胡坐(あぐら)をかき、ニヤニヤと笑いながら言い放った。「西軍の兵糧と弾薬は、伴天連の黄金で潤っていると聞く。だがな、広家殿。もし三成が勝って、毛利が天下の覇権を握ったとて……その背後にいる毛唐どもが、大人しく毛利に国を治めさせるとお思いか? 奴らは必ず、毛利の当主を毒殺し、国を乗っ取るぞ」広家は、ギクリと喉を鳴らした。「……貴公、洗礼名を持つ身でありながら、伴天連を恐れて内府(家康)に寝返ったのか」「恐れる? 冗談ではない」長政は、胸元から銀の十字架を引きずり出し、それを広家の目の前でポンと畳に放り投げた。「こんな銀細工や、毛唐が説く『死後のパライゾ(極楽)』で、兵の腹が膨れるか? 否だ! 我ら武士が欲しいのは、今、目の前にある確かな『土地』と『米』であろうが!」長政は、家康の朱印が押された白紙の領地安堵状を、バンッと畳に叩きつけた。「内府様は、毛利の『本領安堵』を約束してくださる。戦場(関ヶ原)で毛利の軍勢が一切動かず、三成を見殺しにすれば……あんたらの領地は、未来永劫守られるのだ。万一我々が負けたとしても、三成が毛利に手出しはできまい。どっちに転んでも損のない話じゃ。どうかな?広家殿!」広家は、長政の圧倒的な「実利の論理」の前に、完全に呑み込まれた。「……相わかった。毛利本隊(三万)は、関ヶ原では一歩も動かん」***彼はそのまま、西軍の最重要拠点である松尾山に陣取る、小早川秀秋(こばやかわひであき)の陣へと向かった。秀秋の重臣である平岡頼勝らに対し、長政は同じキリシタン大名としての「同族の顔」で囁きかけた。「……平岡殿。小西行長らの熱心な祈りにつき合って、三成の泥舟に乗る必要はない。我らは『旨味』があるから伴天連と付き合っているだけのこと。デウスに殉じて死ぬつもりなど、毛頭ないであろう?」平岡らは、図星を突かれて押し黙った。「内府様は、裏切りの対価として『上方(関西)二カ国』を約束してくださる。……天にある神の国(極楽)より、地上の二カ国だ。違うか?」欲と恐怖、そして長政の「同じ偽信徒(なんちゃってキリシタン)だからわかるぞ」という共犯者のような囁き。