海は、生命のゆりかごであり、人間の故郷でもある。人は知ることへの衝動と、どこか遠い記憶に似た憧れを抱えながら、海へと近づこうとする。けれど水族館の中で、たとえ無数の海の断片が目の前に並べられていても、私たちが実際に触れているのは海そのものではない。ただ一枚のガラスを隔てて、青という現象を見つめているだけだ。私がつくる歌の中の「水」は、むしろ記憶や感情、意識の媒体に近い。水はすべてを受け入れるが、同時にすべてを曖昧にしてしまう。色はゆっくりと滲み、音はどこか遠くへ引き延ばされ、時間は方向を失う。昨日のこと、誰かの面影、そして自分自身の輪郭さえも、水中に漂う泡のように浮かんでは消える。はっきりと見えたかと思えば、次の瞬間にはもう形を失っている。水族館という場所は不思議だ。人はガラスの外側から、もうひとつの世界を眺めている。だが視点を反転させれば、こちら側の人間もまた、どこかから見つめられているのかもしれない。観察しているのは誰なのか。そして、閉じ込められているのは誰なのか。人工的に切り取られたこの海の中で、その境界は静かに曖昧になっていく。結局のところ、私たちが惹かれているのは海そのものではなく、青の向こう側に立ち上がる、自分自身の輪郭なのかもしれない。いずれにせよ、映像の中の景色はもう過去のものだ。そこにあったものはすでに失われ、人も風景も、同じ形では残っていない。時間だけが静かに通り過ぎていく。水族館の映像を見ていると、どこか懐かしさのようなものが残ることがある。だがその懐かしさは、具体的な場所に結びついているというより、もっと曖昧な感情の残響に近い。なぜかこういう文章を書くと、いつも少し長い独白のようになってしまう。意味のあることを言えているのか、自分でもよくわからない。ただ、言葉は残るが、何かが本当に生まれているのかどうかは、まだ掴めていないままだ。