【401年09月】資治通鑑原文5620文字(52/365位)【登場人物】・メインキャスト 4/7-拓跋珪-5/17 5/7-劉裕-5/30・準メインキャスト 4/3-慕容徳-5/13 4/9-桓玄-5/11 4/28-赫連勃勃-6/3 4/24-姚興-5/25 5/4-沮渠蒙遜-6/12 5/4-馮跋-6/8【できごと】 孫恩の乱は、桓玄の勢力を拡大させる契機となりました。建康からの命令を無視して、確実に地盤を固めます。堪忍袋の緒が切れた司馬元顕は、ついに桓玄討伐の軍を立ち上げました。しかし、その先鋒は劉牢之。劉牢之にとって司馬元顕は、王恭以上のくそ上司でした。このため桓玄から「お前あいつの下にいてもじり貧じゃね?」と言われます。これを甥の何無忌、そして劉裕が諫止しますが、聞きません。そして三反の二件目、桓玄軍に合流。逆に司馬元顕を捕らえます。こうして司馬元顕および司馬道子が殺され、桓玄は建康に載り込み、一気に人臣の極み、丞相となります。劉牢之はこの功績から「会稽守備」の任に。劉牢之は桓玄に切り捨てられたのだと遅まきながらに気付き、反桓玄の軍を立ち上げようとしましたが、配下から「三反の将に付き合うものなどいませんよ」と見捨てられました。一応決起しますが到底勢力とは呼べずに逃亡、自殺。残された主要将もまた粛清されました。桓玄に敵対していた司馬休之や息子の劉敬宣は南燕に亡命。そうした中、劉裕らはむしろ、その武勲の高さを買われ、桓玄の軍事機構に組み込まれます。一方で孫恩は晋軍に追い詰められ、自殺。娘婿の盧循が勢力を継承します。 北では呂隆が後秦に降伏しました。ここに後涼が滅亡します。ただそれは飽くまで「守ってもらう」ための措置でした。ここで姚碩徳は最終的に「こいつらに守備を任てたらだめだ」と判断、呂隆らを長安に送り込み、旧後涼領を「ただの領地」化します。あと南涼と北涼がバチバチですが省略。そのなかで禿髪利鹿孤が死亡、弟の禿髪辱檀が立ちました。 南燕では慕容徳が臣下らに直言を収めるよう求めています。また後秦に母と同母兄を残してしまっていたため、その消息を求める使者を後秦に飛ばしました。 この頃にもなると北魏が再び拡大戦略に転じます。するとよろしくないのは後秦、および柔然です。両者はよしみを通じ、対北魏シフトを組みます。姚興は北魏に対抗するため、ひとまず息子の姚泓を太子に据え、その上で進軍、乾壁城を落としました。この南にあった城の名前が、柴壁。北魏と後秦の立場の逆転する戦いが、まもなく始まります。