通鑑2224文字(203/365位)【登場人物】・メイン 4/7-拓跋珪-5/17 5/7-劉裕-5/30 5/12-陶淵明-6/5・準メイン 4/28-赫連勃勃-6/3 4/24-姚興-5/25 5/4-馮跋-6/8 5/4-馮跋-6/8 5/11-拓跋嗣-6/1【できごと】 北魏の拓跋珪は平城の拡張工事について臣下に相談したところ態度が生意気だったので殺した上、平城の南宮を造営しました。 後燕では慕容熙の皇后、苻氏が死亡しました。彼女の死に慕容熙は錯乱にも近い悲しみかたをしてみせ、一時期は意識不明の重体に。目覚めた慕容熙は臣下にも哭泣を強要、しなかったものは殺しました。さらに資治通鑑はあまりにも異常な行為であったためスルーしていますが、慕容熙、棺に収められていた苻氏の遺体と泣きながら交わっています。司馬光さん、さすがにこれはフィクションだろと判断したんでしょうか……ね! 南燕では慕容超のもとで公孫五楼が幅を利かせ、次々に旧来の臣下が殺害されたり、国外逃亡の憂き目に遭っていたりします。これはたまらんと宗族では謀反を決意するものも現れましたが、大臣の韓范に鎮圧されています。こうした中慕容超は酷刑の復活を言い出します。この動きを見ていると「慕容徳の築いたものを壊したくてやって来た」ようにしか見えないのが空恐ろしいです。 後秦では姚興が叔父の姚碩徳および姚緒を非常に重んじていた、という記事が載ります。一方でこの頃から南涼が後秦への帰属から離れはじめ、乞伏氏も臣属こそ誓うもののその勢力を盛り返し始めます。北涼は南涼とバチバチ状態ですし、西涼はよくわかりません。この頃の姚興が西方経営に頭を抱えていたであろうことは想像に難くありません。 東晋ではようやく桓玄討伐戦の論功行賞が完了し、劉裕は豫章郡公に封じられます。ちなみに豫章はこの前に桓玄が封じられており、この当時急速に発展していた地域だったのであろうことが伺えます。ただし、その地を実際に統治したのは会稽から移った何無忌です。このあたりの人事はちょっと不思議です。そして会稽には司馬休之が左遷されました。こうして見ると、当初五斗米道が再び会稽から攻め寄せてくるのではないかと警戒したが、脅威が会稽から去ったと見なされ、それよりも侵攻ルートとしてより現実的である贛水流域の守りを厚くした、と見なすのが良さそうです。一方、このタイミングで殷仲文が桓氏で唯一生存を許されていた桓沖の孫、桓胤を旗印として決起。鎮圧され、殷仲文は桓胤と共に処刑されました。宋書は「この措置をもって桓氏がほぼ滅ぼされた」と宣言します。劉裕、結構どぎついです。