劉裕北伐! 南燕を狙う【夕刊シチ 5月16日号 408年04月】

劉裕北伐! 南燕を狙う【夕刊シチ 5月16日号 408年04月】

【408年04月】資治通鑑原文2663文字(165/365位)【登場人物】・メインキャスト 4/7-拓跋珪-5/17 5/7-劉裕-5/30 5/12-陶淵明-6/5・準メインキャスト 4/28-赫連勃勃-6/3 4/24-姚興-5/25 5/4-沮渠蒙遜-6/12 5/4-馮跋-6/8 5/11-拓跋嗣-6/1【できごと】 この年は、まず南燕から紹介しておきましょう。前年に後秦へ楽隊を献上したため宮廷内の音楽に不備が出ていました。この不足を補わんと、慕容超は、事もあろうに晋から強奪しよう、と言い出します。この命令に臣下らはありえません、と悲鳴をあげますが、慕容超、聞く耳を持ちません。軍を発し、晋から二千五百名ほどを拉致。また北魏にも襲撃を仕掛け、こちらでも千人ほどを拉致しています。これでは自分からわざわざ攻め込む理由を創出したようなものです。実際、この動きに対して晋は報復の動きに出ます。 ただ、そんな晋の周辺で、不穏な謀議が持ち上がります。譙縱と五斗米道が密かに繋がったのです。この頃第二次蜀征伐軍が蜀を進んでいましたが、この軍は道半ばにて足止めを喰らい、さらにそこで疫病の流行を受け、撤退を余儀なくされました。この失敗を受けてこの軍を率いていた劉敬宣は免職、劉裕もまた任命責任として降格しました。なおここで劉毅が劉敬宣の処刑を言い出しますが劉裕がそれを庇い、両名の間の溝が広がります。失点挽回というわけでもないのでしょうが、こうした中劉裕は北辺を荒らす南燕の討伐を願い出ます。周囲からの反対もありましたが、最終的に承認され、出撃。なおこの際、晋に亡命してきていた王猛の孫、王鎮悪を配下に加えています。 後秦はこの年、夏と南涼に同時に攻めかかり、しかも両方で失敗するという最悪なミスを犯しています。このせいで禿髪傉檀は涼王を自称、またこうした後秦のぐだぐだぶりを見てとった乞伏乾帰も後秦から脱出、旧西秦の領域で勢力をまとめていた息子の乞伏熾磐の元に合流します。 北魏はこの年も臣下殺しの話題です。しかも二十年ほど前、敵対勢力に対して媚びるような姿勢を示した、という話を今更のように蒸し返した上で。いくらなんでも拓跋珪を異常人物に見せたい意向が強すぎな気もしますが、問題は実際に魏書でも拓跋珪周りではこの辺りの話しか載っていないことです。のちにこの辺りは国史の獄、崔浩が拓跋鮮卑の歴史を書くに当たってあまりにももろもろあけすけに書きすぎたせいで大弾圧が興り、歴史記述が吹き飛んだため記述が薄いと判明するのですが、それにしても、おかげで晩年の拓跋珪、ただの狂人にしか見えません。

http://www.nicovideo.jp/watch/ss46315479