北魏激震! 拓跋珪暴死【夕刊シチ 5月17日号 409年04月】

北魏激震! 拓跋珪暴死【夕刊シチ 5月17日号 409年04月】

【409年04月】資治通鑑原文6018文字(42/365位)【登場人物】・メインキャスト 4/7-拓跋珪▲ 5/7-劉裕-5/30 5/12-陶淵明-6/5・準メインキャスト 4/28-赫連勃勃-6/3 4/24-姚興-5/25 5/4-沮渠蒙遜-6/12 5/4-馮跋-6/8 5/11-拓跋嗣-6/1【できごと】 この年は北魏の因習として名高い子貴母死が初めて実施された年。拓跋嗣の母をそのまま皇太后としておいていたら、皇太后の一族が権勢を握るであろうから殺した、というものです。この措置を受けて拓跋嗣は号泣、その様子に怒った拓跋珪が折檻を加えようとしてきたため、拓跋嗣は城外に逃れました。するとこのタイミングを見計らい、拓跋珪の息子のひとり、拓跋紹が自らの命を危ぶみ、拓跋珪に強襲を掛け、殺害しました。ここで拓跋紹は皇帝を自称しますが、拓跋嗣はすぐさま城外で兵力をまとめ、拓跋紹を討ち果たし、即位しました。ちょっと激動に過ぎます。 後秦は劉勃勃の逆襲に遭っていました。姚興自身が出陣するも、やはり大敗します。そして、この事態が思ってもみなかった事態を招きます。この時、長安には南燕から韓范が対晋軍のための援軍要請をしに出向いていました。一度はこの申し入れを受け入れた姚興でしたが、この大敗によって兵力が大きく削減。もはや援軍など出せる余力も失い、韓范が引き連れかけた軍を接収。この事態を受け韓范は「天が燕を滅ぼさんとしておるのか!」と悲鳴にも似た絶叫をあげています。またこうした後秦のズタボロぶりを見て、遂に乞伏乾帰が再び秦王を名乗ります。西秦の再興、そして、後秦への手切れ宣言です。 こうした背景を受け、晋。というよりは劉裕。建康より出立、南燕が誇る騎兵軍を退けると、一気に都である広固城に肉薄します。ただ一度広固を囲むと、実際の攻略までには半年以上を要しました。この事態に劉裕は激怒、南燕の貴人五千名ほどを殺し、広固城を解体しました。というのも、南燕攻略を長引かせれば五斗米道が攻めてくるのは、もはや既定路線であったのです。とはいえこの処遇に対し司馬光さんは「仁義がない! だから劉裕は失敗したのだ!」と言い出しています。無茶言うな。ともあれ劉裕は戦勝の余韻に浸る暇もありませんでした。懸念が的中し、五斗米道軍が実際に北上を開始したのです。 同年、北燕で高雲が臣下に殺され、馮跋が立ちました。晋書及び資治通鑑は不幸な事故からの収拾のように書きますが、魏書は「馮跋が殺した」と書いています。いやあのさあ。

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