二劉と二謝! 対決迫る【夕刊シチ 5月19日号 411年03月】

二劉と二謝! 対決迫る【夕刊シチ 5月19日号 411年03月】

【411年03月】資治通鑑原文1403文字(278/365位)【登場人物】・メインキャスト 5/7-劉裕-5/30 5/12-陶淵明-6/5・準メインキャスト 4/28-赫連勃勃-6/3 4/24-姚興-5/25 5/4-沮渠蒙遜-6/12 5/4-馮跋-6/8 5/11-拓跋嗣-6/1 5/18-檀道済-6/14【できごと】 やや資治通鑑から外れるのですが、二人の謝氏がそれぞれの劉の下についています。謝安の孫、謝混。このひとは劉毅のもとに就きました。一方で謝安の兄だが、まるで有名ではない人物、謝拠の曾孫、謝晦。このひとは劉裕のもとに就きました。この話をするのはかなり偏った史観だと言わざるを得ませんが、どちらがより謝家の本筋に近いか、を考えれば、これは謝氏が基本的にどちらにベットしていたのか、という話にも間接的に繋がってきそうな気がしています。それは言い換えれば、このタイミングでの劉毅と劉裕の権勢争いがどういう情勢であったのか、をも占いうるものだったのではないか、と妄想しています。あ! 妄想ですよ! さて西方に逃げた盧循ですが、交州刺史に追い詰められ、自殺しています。こうして五斗米道の乱は収束。劉裕もこの功績から、これまでの中軍将軍から一気に太尉、即ち三公に昇進しました。人臣の極みです。逆に言えば、いくら桓玄を倒したと言っても、これだけの圧倒的な武勲をあげなければ宮中から名実揃った実力者とみられはしなかった、ともなります。 北魏では拓跋嗣が拓跋珪の陵墓に出向いたところで昌黎王の慕容伯児が謀反を考えた、とのことで処刑されています。ここの記事はさらっと書かれていますが、昌黎と言えば慕容部が故郷に設定している地です。ともなればこの人物はもともと北魏が後燕の二王三恪、つまり「自身の国の前代の帝王の子孫にも先祖祭祀を認めることによって自身の国が正統であることを強調する」儀礼の対象者であった可能性があります。その対象者が謀反に動いたため、この方向性が頓挫し、結果として「ただの異姓王の反乱として処分された」の、かも、知れません。ここもやはり妄想です。先日書いた史書記述の著しい欠落に基づくこの頃の北魏のあれこれは、中国の史家である田余慶も「史書からの飛躍を多く挟まないと組み立てきれない」と嘆いています。 北燕では馮跋が柔然の郁久路斛律と婚姻関係を結び、対北魏シフトを敷きます。南涼は引き続き西秦に削られ続け、西涼は北涼の攻撃を巧みに跳ね返す。南涼の情勢に胃がキリキリすることを除けば、中央と辺縁、どちらも次の大転換の準備期間に入った印象です。そして次の転機は、晋で起きます。

http://www.nicovideo.jp/watch/ss46330679