劉毅瞬殺! 劉裕の戦略眼【夕刊シチ 5月20日号 412年02月】

劉毅瞬殺! 劉裕の戦略眼【夕刊シチ 5月20日号 412年02月】

【412年02月】資治通鑑原文3557文字(118/365位)【登場人物】・メインキャスト 5/7-劉裕-5/30 5/12-陶淵明-6/5・準メインキャスト 4/28-赫連勃勃-6/3 4/24-姚興-5/25 5/4-沮渠蒙遜-6/12 5/4-馮跋-6/8 5/11-拓跋嗣-6/1 5/18-檀道済-6/14【できごと】 劉道規が病を得、任地から帰還し、そのまま死亡しました。それはそうでしょう、文字どおり魂を削るレベルのプレッシャーとストレスであったはずです。とは言え、これは劉裕にとって重要な扶翼の喪失を意味します。劉道規の後任には劉毅が任じられました。出立の宴が開かれると、このとき配下の胡藩が「ここで劉毅を暗殺しておくべきではないですか?」と劉裕に囁きましたが、劉裕、これを黙殺しました。 そして、出立。劉毅は荊州に到着すると、さっそく対劉裕のための組織作りを始めます。劉裕はそれに気付かないフリをしつつ裏で準備を進め、そして準備が整ったところで建康に残っていた、謝混をはじめとした劉毅派の貴人たちを収監、殺害。その上で劉毅の罪をあげつらい、出征します。その先鋒は、王鎮悪。王鎮悪は劉毅から求められた劉毅派の重鎮を送り届ける、というふりをして荊州に乗り込み、なんと単独で劉毅を討ち取ります。もともと王猛の孫として名声高かった王鎮悪のこの武勲は、さぞ晋を驚かせたのであろうと想像に難くありません。 ただ、劉裕の恐ろしいところはここからです。先鋒軍でことが片付いたので、本軍は無傷。なのでこの本軍を再編成、配下将のひとりである朱齢石に与え、そのまま蜀に侵攻させました。そして司馬休之を荊州統治に充て、自身は荊州の統治方針に対してひととおりの指示をすると、建康に戻ります。このとき建康ではもうひとつ仕事が残っていました。桓玄打倒決起ころからの同志、諸葛長民の粛清です。南燕討伐もそうでしたが、一つの動きに二つ、三つが当たり前に組み込まれている劉裕の軍略視野は一体どうやって身につけたものなんだと思わずにおれません。 南涼、後秦は引き続き周辺勢力からの攻撃を食らっています。ここで仇池の楊盛もまた後秦との手切れを宣言しました。姚興は怒り仇池を攻めると言い出しますが「あなたのお父上でも無理だったのに無茶です!」と言われてしまいます。それを却下して攻めかかれば、結局敗北してしまいました。 また西秦では乞伏乾帰が甥に殺される、という事件が起こっています。ただしこれは、すぐさま乞伏熾磐が兵を整え討伐。乞伏熾磐がそのまま王位を継承しました。西方の破綻も、すぐそこのようです。

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