【413年01月】資治通鑑原文2316文字(193/365位)【登場人物】・メインキャスト 5/7-劉裕-5/30 5/12-陶淵明-6/5・準メインキャスト 4/28-赫連勃勃-6/3 4/24-姚興-5/25 5/4-沮渠蒙遜-6/12 5/4-馮跋-6/8 5/11-拓跋嗣-6/1 5/18-檀道済-6/14【できごと】 荊州から帰還した劉裕は、わざと途中で旅程に遅れを出します。このため建康で劉裕の期間を待つ者たちは何日かの待ちぼうけを食らうことに。ここには劉裕の同志のひとり、諸葛長民がいました。この人物は武幹こそあれど傲慢で劉裕に対しても不満を抱いていた人物でした。劉毅という反劉裕派の筆頭が滅んだ以上身を危ぶみ劉裕の命を狙うであろうことが見えていたため、劉裕、船団から小舟で別行動をとり、本隊到着の前に建康城へ帰還。そして諸葛長民を「後ろから」呼び出します。肝を潰した諸葛長民は劉裕のもとに出頭、そこで劉裕の護衛である丁旿に殴り殺されました。この事件があり、ちまたでは「変なことしたら側に丁旿がいるぞ」と噂されるようになりました。 劉裕はこれで、ほぼ自身の発言を思い通りに押し通せる状態になりました。そこで次の政策を打ちます。土断です。桓温の時代から時が下り、民の移動もや混交もまた起こっていましたので、そこを整えたのです。この土断は、晋の時代でもっとも徹底的なものとなりました。これにより劉裕は北伐のための軍資を獲得した、と評されます。また西方に送り込まれた第三次蜀遠征の軍は、見事に譙縱を討ち果たし、平定に成功します。なお資治通鑑は黙殺していますが、平定直後に蜀で大規模反乱が起こっており、なかなか言うほどお綺麗な軍役でもなさそうです。 北魏では周辺勢力を制圧したり、謀反を鎮圧したり、などの話が載るくらいです。あと後秦から拓跋嗣にあてて婚姻の話が持ち込まれたため、これを受け入れました。このためここから北魏と後秦の紐帯が一段太くなります。これは、このあとの劉裕による北伐にも絡んできます。 後秦をいじめ抜き、劉勃勃はまさにこのときが勢力の絶頂。ここで有名な話が出てきます。まず、名前を赫連勃勃に改めます。また統万城を建築する際、城壁の作りが甘かった職人を城壁に塗り込んだり、武器職人と防具職人の作ったもので戦わせて、負けたほうを殺した、などです。嘘か本当かを聞かれたら「聞いていて楽しい」とやや引きつった顔で答えるしかないですね! ともあれ、このあたりは後秦と南涼がとにかくひどい。読んでいてハラハラして仕方がありません。