涼州統一! 沮渠蒙遜の知謀【夕刊シチ 5月29日号 420年08月】

涼州統一! 沮渠蒙遜の知謀【夕刊シチ 5月29日号 420年08月】

通鑑776文字(333/365位)【登場人物】・メイン 5/7-劉裕-5/30 5/12-陶淵明-6/5 5/25-劉義隆-7/2・準メイン 4/28-赫連勃勃-6/3 5/4-沮渠蒙遜-6/12 5/4-馮跋-6/8 5/11-拓跋嗣-6/1 5/23-檀道済-6/14 5/23-崔浩-6/29 5/26-劉義慶-6/23【できごと】 皇帝即位後の劉裕、いえ、武帝は即位直後に大赦をなしましたが、この年にも改めて大赦をなしました。まあなんと言うか、簒奪を食らった皇帝の復位なんて権威はどう考えてもどん底ですし、その皇帝のもとでどれだけ功績を挙げてみたところで「皇帝の値段」は上がらないのですよね。資治通鑑が語るのも、結局は劉裕が強かった、であり、では、皇帝としての権威がどれだけあったのか、には、かなり懐疑的です。ここで司馬光さんは自分の言葉ではなく、梁代の歴史家、裴子野の言葉を引き、「その大赦、なんかおかしくね?」と主張しています。乱発に対する懐疑的な目を「疑ってるのは自分だけではありませんよ!」とアピールしてきます。 またこの頃、武帝は司馬徳文を暗殺すべく、配下に毒薬を渡したところ「元の主を殺すくらいならば死んだほうがマシです!」と、その毒薬で自殺されています。武帝の即位周りの後ろ暗さがこれでもか、と詰め込まれています。司馬光さん、劉裕の初動はめちゃくちゃ情熱的だったのに、南燕のあたりからおかしくなっています。「なんでお前は伝説の聖王にもなれたかもしれないのに、そんなポカばっかりするんだよ!」とでも言わんばかりです。 西秦と北魏は例によってふわふわした動きです。南を諡号で呼び始めましたし、北も一緒に諡号で呼び始めましょう。拓跋嗣、改め明元帝は姚皇后を喪うなどの悲劇にも見舞われましたが、引き続き大きな動きを見せていません。ということは南征の準備を進めていた、と言うことでもあります。ド派手に暴れ回っていた父親とは見事なくらい真逆です。 そして、西涼。最期の君主である李恂は沮渠蒙遜と戦っても勝ち目がないと守りに回りますが、結局水攻めを受け、絶望し、自殺しました。これで沮渠蒙遜は涼の地域を手に入れます。とは言え東には夏も、西秦もある。そして何よりも、北魏。この時代で覇を唱えるには、他の国がまた強すぎた。生まれた時代と場所がもう少し違ったら結果も違ったのではないかとも思わせるくらいの、稀代の策士ではあるのですけれど。 なお北涼、そして西秦は仏教が重んじられていましたが、資治通鑑は触れません。この辺りを踏まえれば、見え方が変わりそうなんですけどね。

http://www.nicovideo.jp/watch/ss46364559