通鑑2520文字(177/365位)【登場人物】・メイン 5/7-劉裕▲ 5/12-陶淵明-6/5 5/25-劉義隆-7/2 拓跋燾-7/1・準メイン 4/28-赫連勃勃-6/3 5/4-沮渠蒙遜-6/12 5/4-馮跋-6/8 5/11-拓跋嗣-6/1 5/23-檀道済-6/14 5/23-崔浩-6/29 5/26-劉義慶-6/23【できごと】 武帝、司馬徳文を暗殺。その暗殺には、妃である褚氏の兄弟に関与させました。安帝のときもそうでしたが、宋書は武帝本紀だと「死んだ」とのみ書き、列伝ではじめて詳細を載せます。皇帝の伝記はあくまで美しくなければならないようです。 そして危篤に陥ります。太子の劉義符は未だ十七歳でしたから、後見に徐羨之、傅亮、謝晦、劉道憐をつけました。そして死亡。なお謝晦は武帝存命中劉義符では皇帝にふさわしくないと言い切っています。面白いのは、このときの議論で劉義隆の名前が上がっていないことです。こうしたことから、劉義隆は才覚こそあれ母親の格的に皇位継承には値しない、とみなされていたっぽいことが匂わされます。ともあれ、劉義符が帝位を継承しました。少帝です。ちなみに皇后は司馬徳文の娘です。えげつないですね。また直後に劉道憐も死亡しました。 この年の北魏には、まだ大きな動きは現れません。ただし、これがありました。嫡子の拓跋燾を太子、監国とします。ここで監国は皇帝の代わりに政務の総取締を行う役目。当時拓跋燾は14歳です。このためその周囲は崔浩をはじめとした側近らで固められました。この動きで思い出されるものはなんでしょうか。姚興の立太子です。柴壁に向かう前の姚興が、姚泓を立てていました。では、明元帝のこの動きが示すのはなんなのか、ということです。もっともこの頃明元帝はしばしば寒食散を服用して体調を崩していたとも言いますから、単純に自らの寿命に目処が立ってしまっていただけなのかもしれません。 ところで、北涼について一つ情報を提供しておかねばなりません。わかりやすさ優先のため伏せていましたが、この頃まで沮渠蒙遜は涼王を名乗っていません。河西王、がその自称でした。このあたりには名より実を取っていた印象があります。これが奏功したか、宋より涼州刺史に任じられています。いわば、宋による涼州支配の公認です。周辺国は、南北二大国との付き合い方にかなり慎重であったことが伺われます。 二大国にしても周辺国が相手国の足を引っ張ってくれれば万々歳ですし、このあたりの時代の外交、内情を想像するだけで楽しいです――まぁ翌年、いきなり両国がぶつかるんですが。