明元崩御! 少帝廃位!【夕刊シチ 6月1日号 423年07月】

明元崩御! 少帝廃位!【夕刊シチ 6月1日号 423年07月】

資治通鑑2477文字(182/365位)【登場人物】・メイン 5/12-陶淵明-6/5 5/25-劉義隆-7/2 5/30-拓跋燾-7/1 寇謙之-6/27 謝霊運-6/12・準メイン 4/28-赫連勃勃-6/3 5/4-沮渠蒙遜-6/12 5/4-馮跋-6/8 5/11-拓跋嗣▲ 5/23-檀道済-6/14 5/23-崔浩-6/29 5/26-劉義慶-6/23【できごと】 河南攻略戦を終えると、明元帝が崩御しました。父のときとは違い、こちらは万全な体制のもとに帝位を嫡子の拓跋燾に継承します。太武帝です。そして母親の杜氏を皇后として追尊と載ります。母の死に慟哭した明元帝、太武帝の母も殺したようです。 太武帝の後見人代表といえば崔浩でしたが、崔浩、この頃ひとりの道教指導者を奉じました。寇謙之と言います。ここで司馬光さんが「崔浩、老子のことめっちゃ毛嫌いしてたやん! なのになんで寇謙之みたいな老子の言葉をさらに悪用したクソ野郎崇めとんねん!」とブチ切れています。司馬光さんにとって崔浩はヘイトの対象であったようです。ただし崔浩ヘイトは北魏朝廷のデフォルトであったようで、太武帝に対して臣下らが崔浩を罷免すべく言い募っています。太武帝も、はじめこの提言に従うふりをして、まもなくして復帰させています。 宋では、少帝が父親への服喪もそこそこに遊びほうけていました。これは皇帝の才なしということで、徐羨之らが廃位を図ります。ただしそのままでは「あの」劉義真が皇帝になってしまう。そのためまず劉義真が廃位の上殺されました。なおこの劉義真の友人に、謝霊運がいました。東晋~劉宋期最大の文人です。ただし資治通鑑は文の才能よりも傲慢さを優先して紹介しており「こんなやつ左遷されて当然じゃ」くらいの書き方をしています。そして檀道済を招集、兵を率いさせ、遊び疲れて眠る少帝のもとに赴いて迫り「皇太后陛下よりの命令である」として皇帝の印綬を没収、廃位しました。ここで、次の皇帝への推戴順序がやはり先に五男の劉義恭、次いで三男の劉義隆と言う順番でした。廃位された劉義符は建康を出され、金昌亭という地に送り込まれました。 柔然はちょくちょく北魏に攻勢を受けていました。そうすると、別のところでそのうっぷんを晴らそうとするわけです。その対象になったのが、北涼でした。この戦いで沮渠蒙遜は嫡子を喪います。また西秦では南涼から皇后に迎えていた禿髪傉檀の娘が乞伏熾磐への反乱を目論みますが、同じく側妾となっていたその妹による告発を受け、処刑されています。北涼と西秦も、やや怪しい雲行きになり始めていますね。

http://www.nicovideo.jp/watch/ss46377046