西秦疲弊! 蒙遜迫る【夕刊シチ 6月6日号 428年04月】

西秦疲弊! 蒙遜迫る【夕刊シチ 6月6日号 428年04月】

通鑑1773文字(247/365位)【登場人物】・メイン 5/25-劉義隆-7/2 5/30-拓跋燾-7/1 6/1-寇謙之-6/27 6/1-謝霊運-6/12・準メイン 5/4-沮渠蒙遜-6/12 5/4-馮跋-6/8 5/23-檀道済-6/14 5/23-崔浩-6/29 5/26-劉義慶-6/23【できごと】 西秦で乞伏熾磐が死亡、乞伏暮末が立ちます。それにしても禿髪傉檀といい、鮮卑語なのをいいことに都合のいい当て字をしている印象です。この機に乗じて沮渠蒙遜が西秦を攻撃しましたが、これは撃退されました。とは言え状況としては北涼が有利。このため乞伏暮末は北涼に和睦の使者を送りました。沮渠蒙遜はその動きを慎重に見極めることとし、ようやく和睦を受け入れます。なにせ西秦、宗族がアンコントローラブルになっていたりで、統制で手一杯になっていたのです。すると沮渠蒙遜、すぐさま和睦を破棄し、攻め込みます。 この年の太武帝には大きな動きがありません。統万〜関中をどのように治めるか、新たな国境をどう守るか、に追われていたのでしょう。なので逆サイドでの動きが起きます。宋による徐州攻撃です。あわせて中山での反乱が起こります。中山については叔孫建が鎮圧にあたりました。 この年の宋では、謝霊運の傲慢さが再び強調されます。謝霊運はかの謝玄の孫であり、その爵位を継承していた、筋金入りの名門人でもありました。そのため自分こそが宰相にふさわしいと思っていたのにも関わらず王曇首や殷景仁など、自身から見れば木っ端でしかない者たちが大権にあずかっていたことを恨みに思い、サボタージュを決め始めたため文帝より「休め」と言われ、会稽に隠棲します。ただし会稽でなんらかのやらかしを決めたそうで、免職となりました。 ここで文帝は武帝四男の劉義康を宰相に据え、五男の劉義恭を荊州の守りに充てます。つまり自身の兄弟によって国内の統治を固めた形です。そして劉義恭にはその統治を粛々と実行させるべく、戒めの手紙を書いてよこしました。その内容はかなり細々としている、と言うか、ひとくちに言って文帝の悪い意味での生真面目さがこれでもかと刻みつけられていました。ただし大々的な取り上げ方から見ると、司馬光さん的にはどうも大喝采だったっぽいです。 ちなみにここで紹介しておきましょう、曹魏は宗族の権威を抑え込むことで司馬氏の台頭を招き、西晋は宗族に大権を与えて八王の乱を引き起こし、東晋は宗族に中途半端な権威しか与えられなかったことで南渡貴族らの跋扈を引き起こしました。では、劉宋はこのあとどうなるのでしょうか。

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