【432年01月】資治通鑑原文3503文字(120/365位)【登場人物】・メインキャスト 5/25-劉義隆-7/2 5/30-拓跋燾-7/1 6/1-寇謙之-6/27 6/1-謝霊運-6/12・準メインキャスト 5/4-沮渠蒙遜-6/12 5/23-檀道済-6/14 5/23-崔浩-6/29 5/26-劉義慶-6/23 拓跋晃-6/30【できごと】 吐谷渾から赫連定が護送されてきましたが、太武帝はサクッと処刑します。また吐谷渾に対しては旧西秦の統治を許可したのでそれが報酬ではないかと言ってのけ、吐谷渾からの支持を失いました。ともあれ夏の滅亡は北魏にとっての慶事です。ここで改元及び5歳の嫡子、拓跋晃を太子に立てました。そして太武帝は兵を整え、北燕を攻撃。武を収めた、わけではなかったようです。北燕としては到底抵抗しきれるものでもありません。各城は次々に落とされていきます。この事態を受けて北燕は宋に臣従の使者を送ります。さらに宗族内でも決裂が起き、宗族の馮崇が脱出、臨時政権を築き、北魏の支援を受けるようになりました。馮跋という類まれなる蓋の喪失が、大きく国の安定を損ねているのが伺われます。太武帝の出撃も、そこを狙ってのことだったのでしょう。太武帝は配下に都を囲ませたまま、自身は北燕領内の民をさらい、帰還しました。 改めて正式に涼となった北涼には、北魏から使者が送り込まれました。このとき沮渠蒙遜による使者への礼がひどいということで、使者からの糾弾を受けています。使者は帰還すると沮渠蒙遜の老齢を指摘。太武帝は「やつが死んだら攻め取ることとしよう」と言いました。なおこの頃北涼では曇無讖という僧が沮渠蒙遜よりの信奉を受けていましたが、曇無讖を北魏が召喚してきたため、沮渠蒙遜、曇無讖を殺します。いくら国の内情を把握した僧とは言え、殺害はさすがにやりすぎです。他にも沮渠蒙遜はこの頃暴虐を加速させてもいたそうです。 北魏にぞんざいな扱いを受けた吐谷渾は宋に近付きます。また仇池の楊難当についてもあわせて貢納を受け入れています。ここで荊州の守りが劉義恭から劉義慶に変更。劉義慶は文帝のいとこで、息子のなかった劉道規の後継者となった人物です。つまり最も重要な宗族で、その代表的著作には、有名な『世説新語』があります。 一方、これまで割と静かであった蜀で大規模反乱が起こっています。蜀の長官が収奪を甚だしくしたためです。これについては裏側で楊難当が支援していたりと、宋の遠方統治力が問われる案件となっていました。その統治力、結構ヤバそうです。