蒙遜散る! 西方最終局面【夕刊シチ 6月11日号 433年01月】

蒙遜散る! 西方最終局面【夕刊シチ 6月11日号 433年01月】

【433年01月】資治通鑑原文1619文字(259/365位)【登場人物】・メインキャスト 5/25-劉義隆-7/2 5/30-拓跋燾-7/1 6/1-寇謙之-6/27 6/1-謝霊運-6/12・準メインキャスト 5/4-沮渠蒙遜▲ 5/23-檀道済-6/14 5/23-崔浩-6/29 5/26-劉義慶-6/23 6/10-拓跋晃-6/30【できごと】 太武帝はこの年、侵攻と内政のバランスを巧みに取ります。北燕には増援を送り、長安には信頼おける弟の拓跋範を大都督として配し、崔浩の叔父である崔徽に補佐をさせます。これにより長安の治安は改善されていきました。また虎牢を守らせていた陸俟に一度西方の騒乱を鎮圧させると、今度は高車の鎮撫にあたらせます。すると高車から前任者に戻してほしいとクレームがあったため、太武帝、前任者を戻し、陸俟を平城に召還。すると陸俟は前任者が失敗すると予言し、直後本当に前任者は殺されました。太武帝は陸俟のこの見識に唸っています。 そしてこのタイミングで、沮渠蒙遜が死亡。子の沮渠牧犍がつきました。太武帝は沮渠牧犍の才能を軽んじていましたから、この段階ではあえて優遇するような形をとります。沮渠牧犍もまた自身の妹を太武帝の側妾として献上、その紐帯を強めようとしました――その北魏で北涼攻略の謀議が進んでいるとも知らないまま。 さて、宋における蜀の反乱の原因の一つに、長官が病に倒れていた、というのがありました。前年まではそれでも何とか踏ん張っていましたが、このタイミングで長官が死亡。残された官吏たちは長官の死を伏せたまま新たに派遣された長官、清廉にして硬骨で知られる甄法崇の到着まで持ちこたえました。さらに劉義慶もまた成都救援の兵を派出します。趙広は逃げ回りながらも勢力を保ち、対峙します。とはいえ趙広は各地で敗北、後退を余儀なくされました。 一方、仇池です。蜀の反乱にいっちょ噛みしていた楊難当は、ここで北魏とも手を組んでいました。おりしもお隣の地、漢中では甄法崇の兄、甄法護がやはりずさんな統治で現地人の恨みを買っていたため、代わりの長官、蕭思話が派遣されることになっていました。なお蕭思話は武帝の継母である蕭皇太后の甥にあたります。なので言ってみれば、宋における「血の繋がっていない外戚」のような立場です。ただし楊難当は長官交代直前、という不安定なタイミングに乗じて漢中に侵攻、そして獲得。仇池の軍略、正直、いぶし銀です。

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