通鑑1361文字(283/365位)【登場人物】・メイン 5/25-劉義隆-7/2 5/30-拓跋燾-7/1 6/1-寇謙之-6/27・準メイン 5/23-檀道済-6/14 5/23-崔浩-6/29 5/26-劉義慶-6/23 6/10-拓跋晃-6/30【できごと】 太武帝はここまでの各臣下の功績を鑑み、論功行賞を行ったようです。ここで異姓の人物が何人か王に封じられます。漢以来、禅譲のタイミング以外ではあまりみられることのなかった措置です。この辺りについては鮮卑式の官制で「王」に相当する位に各臣下をつけたのではないか、という気もします。またこのころ西方諸国家が貢納をしてきて保護を願い出てきていました。太武帝としてはこうした国家の面倒まで見る気もなかったのですが、臣下に諫められ、しぶしぶ使者を派遣。しかしこの使者は柔然にとらえられてしまいます。太武帝がこれに激怒したため柔然は使者を返還しましたが、そうしたわけで結局使者は西域に出ることができませんでした。 この年はまれにみる豊作であったそうで、太武帝、二十五日にもわたる大宴会を催します。この宴会にて高句麗王に官位を授けました。これまで北燕にさえぎられて通交できなかった国との通交ですから、この当時どれだけ北燕の国土が縮小していたのかがありありと示されています。そんな北燕は引き続き人質を出すことを渋り、その代わりに武具などを貢納。太武帝は再び北燕の領土から民をさらいました。 宋では、文帝の手足ともいうべき五臣が仲たがいです。とはいってもそのうちの三名はすでに亡く、残るは劉湛と殷景仁のみ。もともと親しかった両名でしたが、劉湛が荊州の副官の任務から中央に戻ってみれば、殷景仁は中央での権勢を握っています。このため劉湛は劉義康に取り入り、どうにか殷景仁を追い落とそうとしますが、うまく行きません。このためついには暗殺まで目論み始めます。文帝はこうした劉湛の動きを陰ながら察知、牽制することで暗に「おまえの目論みはこちらにも筒抜けだぞ」というシグナルを送ったのですが、しかし劉湛は全然矛を収める気配がありません。こうして殷景仁はついに自らの身を危ぶむようになり、自宅に引きこもりました。そんなことをやっている場合なの? 北涼では「涼の命運、三十年か七年」という予言書が出土しています。沮渠牧犍がこれについての意味を問うたところ、臣下は「謹んで政をなせば三十年の繁栄を、遊び惚ければ七年での滅亡を受ける、ということでしょう」と回答。沮渠牧犍は不機嫌になりましたが、まぁ例によって、というやつです。 この頃の情勢、北魏独り勝ち、って感じですね。