檀道済粛清! 長城崩る【夕刊シチ 6月14日号 435年11月】

檀道済粛清! 長城崩る【夕刊シチ 6月14日号 435年11月】

資治通鑑原文1571文字(265/365位)【登場人物】・メインキャスト 5/25-劉義隆-7/2 5/30-拓跋燾-7/1 6/1-寇謙之-6/27・準メインキャスト 5/23-檀道済-6/14 5/23-崔浩-6/29 5/26-劉義慶-6/23 6/10-拓跋晃-6/30【できごと】  このあたりの北燕のやっていることは、正直よくわかりません。北魏に人質として太子を送れ、と言われて、送らない。送らなければ滅ぶにもかかわらずです。それどころか後背の高句麗、既に北魏に朝貢をなしている国に頼って再起を図ろうとさえします。その後ついに音を上げた馮弘は、ようやく改めて人質を送りますと言いましたが、さすがに太武帝も我慢の限界であったようで、そのまま北燕を攻撃。たまらず馮弘は高句麗に脱出、庇護を受けました。高句麗は北魏に対して「馮弘と共に陛下を奉じます」と言ってきます。ふざけんなよ、と太武帝は討伐の兵を挙げようとしましたが、このとき仇池周りでのごたごたもあったため、この出征は見送りとなりました。 仇池とは、何があったのか。この頃の仇池は夏や西秦の滅亡を受け、そのどさくさに紛れて領土を拡張していました。こうした事態を太武帝が咎め、兵を発したのです。この動きに恐れをなした楊難当はこのどさくさで得た地を放棄し、改めて北魏に帰順する、と申し出ます。ここで諸将はこうした舐めた動きをした仇池をここで屠るべきとしましたが、高允と言う人物が「それをやったら我が国は野蛮であると見られますが、それでいいのですか?」と諫めました。このため撃滅は中断となり、そのまま駐屯軍は関中西部の治安改善に努めました。 さて、これまでちらほら東晋や宋では仏教の話が見え隠れしていました。ここで改めて書かれます。仏教の普及が進んでから仏像や塔、寺院が数千規模で建立されたが、もはや信仰が形骸化しつつある、ただの贅沢競争と化している、と。このため仏教建築のたぐいについては申告制となり、また極度に華美な装飾品を用いないように、という詔勅が下りました。あと三男の劉駿、のちの孝武帝が武陵王に封じられました。 またこの年、文帝が病に冒され、まともに政務が執れなくなります。すると劉湛が動きます。すでに殷景仁は引きこもって参与も薄くなり、このため目の上のたんこぶを別のところに見出します。それが、檀道済。劉湛は劉義康に「陛下にもしものことがあったら檀道済がどう動くか測り知れません」と囁き、ついには檀道済を召喚の上、処刑。このとき檀道済はかぶっていた帽子を地面に叩きつけ、叫んだと言います。「お前たちの長城を自ら壊したのだぞ!」

http://www.nicovideo.jp/watch/ss46412260