通鑑1095文字(308/365位)【登場人物】・メイン 5/25-劉義隆-7/2 5/30-拓跋燾-7/1 6/1-寇謙之-6/27・準メイン 5/23-崔浩-6/29 5/26-劉義慶-6/23 6/10-拓跋晃-6/30【できごと】 過去に西方遣使に失敗した太武帝、改めて西方に使者を送ります。使者の到着に各国の王は歓喜し、以降の北魏には西方からの使者が途切れなくなりました。これは柔然との北魏、柔然と西方諸国との関係を考えると、なかなかに不思議ですね。これは西方に派遣される使者が、今度はなかば軍のようであったのかもしれません。また沮渠牧犍が改めて臣従のための使者をよこしましたが、太武帝はその使者を歓待しつつも北涼に過去に遣わされていた使者、李順に「そろそろ北涼は落とせそうか?」と尋ねました。李順は同意しつつも「北燕制圧の疲労を抜いてからでございましょう」と答えます。太武帝もその提案に同意しました。おい聞いたか苻堅。また太武帝は五十歳以下の僧侶を還俗させる命を下しました。現役世代に寺に引きこもられてはたまらない、ということなのでしょう。こののち太武帝は柔然討伐の軍を編成、出征しましたが、このときはほぼ戦果らしい戦果もありませんでした。行軍が続き、そのさなかで多くの兵馬を損耗して終わった、とのことです。太武帝のやっていることを追っていると暴虐極まりない魔王なのですが、ここで北魏が滅亡はおろか衰退したわけでもないので、あまり批判の声が上がっていない感じなのでしょう。 高句麗に逃れた馮弘はどうなったでしょうか。客人にも関わらず国主のように振る舞い、高句麗の人たちを見下していたそうです。このため高句麗人から恨みを買いました。馮弘は慌てて宋に亡命しようとしますが、間に合わずに殺されます。ここに北燕も滅亡しました。なお一般的には和龍陥落を滅亡の年とするそうです。 そして、この年も引き続き宋の記事があまりにも薄いです。あるのは吐谷渾慕利延を吐谷渾王として承認した、太子劉劭に陳郡袁氏の娘を妃として迎えた、くらい。資治通鑑から見える文帝の治世は「元嘉の治」と讃えられる繁栄よりも、北魏に圧迫を受け続けていた情けない国、ぐらいの感覚が司馬光さんにはありそうです。とはいえこの頃の宋書文帝紀もまたろくすっぽこの辺りの年になにがあったかを記録していません。史書というのは国主がなにを行っていたかについてちゃんと記録しておかないといけない気がするんですけど、なんなんでしょうかね。滅亡後半世紀もしないうちに建康宮城から劉宋の時代について書かれた史料が失われちゃったんでしょうか――などとも考えたくなってしまいます。もちろんこれは皮肉です。