【438年09月】資治通鑑原文2112文字(218/365位)【登場人物】・メインキャスト 5/25-劉義隆-7/2 5/30-拓跋燾-7/1 6/1-寇謙之-6/27・準メインキャスト 5/23-崔浩-6/29 5/26-劉義慶-6/23 6/10-拓跋晃-6/30【できごと】 北涼では沮渠牧犍が自身の兄嫁と密通、邪魔ものと感じた太武帝の娘を毒殺しようと図ったため、両国の間にひびが入った……と書かれています。いや「ほんまかいな」以上の感想がありませんけれど。むしろこちらのほうが重要でしょう、北涼と柔然がこの頃結んでいたのです。両国からしてみれば北魏こそ魔王ですし結ぶのが当然と言えば当然なのですが、とは言えそれは北魏に攻撃の口実を与えるようなものでした。そこで太武帝は臣下に北涼討伐について諮ります。臣下の多くは涼の国土が荒廃している、柔然遠征の失敗の傷が癒えていない、と言ったことを理由に反対。その中にはしばしば北涼に使者として赴いていた李順もいました。すると崔浩、この李順のことが大っ嫌いであったため、ずずいと出張り、論難、と言うよりは糾弾します。「はて、では何故『漢書』に『涼州は牧畜が盛ん』と書かれるのか? 水や草なきところに古人が郡県を置くとも思えぬが」と。かくして太武帝は平城の統治を拓跋晃に一任、もと南涼の皇族であった源賀を案内役とし、出征しました。 宋では文帝が玄学・史学・文学・儒学の四つの学統を設立しています。これに対して司馬光さんは「いや史学と文学は儒の付随っしょ、玄学に至ってはむしろ儒に相反するものでしょ、なにこんなもん皇帝が重んじてんの!」とおこになった直後、ところで、と文帝の治世について語ります。そう、いわゆる「元嘉の治」について。文帝の統治は寛和でありながらも弛んだところがなく、この頃が最も美しかった、と。とは言えその直前でそのやっていることを腐しているわけで、「一般的にはそう評価されてるけど……ねえ?」とでも言わんばかりです。 また、荊州では八年にわたって統治をしてきた劉義慶の任期が終わり、武帝の末っ子、劉義季が新たに赴任しました。このときその兄である劉義宣も候補に挙がりましたが、凡庸であるとして退けられています。そして劉義季は赴任後田畑を耕す老人に「狩猟よりも農耕の方が大切です」と啓発されて感じ入った、と書かれています。 さてこの頃、仇池が割れていました。楊難当の甥、即ち楊玄の子に当たる楊保宗が北魏に亡命していました。では、このあと仇池はどうなるでしょうか。