【439年08月】資治通鑑原文3718文字(107/365位)【登場人物】・メインキャスト 5/25-劉義隆-7/2 5/30-拓跋燾-7/1 6/1-寇謙之-6/27・準メインキャスト 5/23-崔浩-6/29 5/26-劉義慶-6/23 6/10-拓跋晃-6/30【できごと】 北魏の軍が北涼に迫ります。沮渠牧犍はここで柔然からの援軍を頼みとし、籠城。とはいえその弟は北魏に帰順し、その内情をつぶさに伝えました。このため太武帝はその攻めの姿勢を堅持、合わせて涼の国土が豊かであるのを見て崔浩に「そなたの言葉、まさしくであった!」と感嘆しています。そして沮渠牧犍もまもなくして降伏、こうして最後の五胡国家、北涼が滅亡しました。北涼各郡守は基本的に君主に倣い、何名かは国外に逃亡。こうして太武帝が苻堅以来の華北統一を成し遂げます。なお太武帝の留守をついて柔然は平城に攻撃を仕掛けましたが失敗、撤退しています。 太武帝は涼州を拓跋丕に任せ、平城に帰還。北涼にいた賢人らを政権に参与させました。この頃の北魏はまだまだ尚武の気質が強かったのですが、北涼士人らの合流により、学問の気風が高まり始めたそうです。ここで、もともと崔浩は太武帝より重んじられていましたが、もうひとり存在感を増す人物が現れます。高允と言います。崔浩とともに史書編纂事業に従事することとなり、両名はほぼ対等の議論をなしています。 北魏の華北統一は、仇池や吐谷渾にとっては一大事です。両国とも国境周辺を微妙に荒らして回るも、最終的には改めて北魏に帰伏を表明しました。そしてこの年に拓跋晃の嫡子、拓跋濬が誕生。のちの文成帝です。太武帝はこうしたことを吉事と見なし、元号を太平真君と改めました。これは道教、つまり寇謙之の思想に由来する元号です。司馬光さんが批判していた寇謙之の思想が、いよいよ北魏に深く浸透したのが示されています。 華々しい北魏とは対照的に、この頃宋では文帝がしばしば危篤に陥るほどの重病を患い、このため劉義康による専権を招いていました。また、その側近として劉湛も権力を高めます。しかも影では、この年元服したばかりの劉劭では北魏に抗しきれない、とまでささやく始末。文帝としてもこの両名の権勢はいよいよ看過しきれないものとなっていました。このためこれまで蜜月にも近しかった文帝と劉義康の関係が、ここで決裂します。このことを知った劉湛は慌てて官を退き、家に戻りましたが、さて、この動きは間に合ったのでしょうか。 なおこの年、先日乱を起こして鎮圧されていた趙広が蜀で再び乱を起こすもあっさり鎮圧されたそうです。切ないですね。