五臣全滅! 文帝逼塞【夕刊シチ 6月19日号 440年08月】

五臣全滅! 文帝逼塞【夕刊シチ 6月19日号 440年08月】

通鑑2554文字(174/365位)【登場人物】・メイン 5/25-劉義隆-7/2 5/30-拓跋燾-7/1 6/1-寇謙之-6/27・準メイン 5/23-崔浩-6/29 5/26-劉義慶-6/23 6/10-拓跋晃-6/30【できごと】 北魏で晋からの降将であった王慧龍が死亡しました。文帝に王慧龍の暗殺を命じられていたはずの人物、呂玄伯がその墓を生涯守ったと書かれます。なんと北魏の対宋プロパガンダに丁度いい人物なのでしょう! という北魏に関する前フリを決めて、この年の主役は宋です。とはいっても華々しさは欠片もなくヘドグチョです。まず文帝は劉義康ポチの劉湛を血祭りにあげました。これで劉義康を追い詰めます。文帝は殷景仁に罪人らの処罰について一任します。また、ここで任用された人物がいました。沈慶之と言います。このひとは檀道済の推挙により取り立てられています。つまり、劉義康や劉湛に対して疑惑の目を持っていたとしても不思議ではありません。さらに、もう一人の名も挙がります。徐湛之。武帝の娘の子、つまり外孫です。劉義康と親交が深かったためはじめ処刑と言うことになったのですが、母親、つまり文帝の姉からの取りなしもあり赦免され、以降文帝の側近として働くようになります。 自身の支援者を失った劉義康は豫章に追放処分となりました。文帝の姉は劉興弟というのですが、弟たち同士の反目に心引き裂かれており、劉義康を助命してほしい、と文帝にすがりつきます。そして資治通鑑は書きます、「劉興弟の存命中は大丈夫でした」と。宰相を取り除いた文帝政権はここで劉義恭を新たなる宰相とし、殷景仁にその補佐をさせますが、間もなくしてその殷景仁も死亡。ここに文帝の草創期を支えた五臣が全滅しました。なお劉義康の追放措置に反対の声を上げた臣下がいたのですが、このひとは即収監され、誅殺されました。これを受け司馬光さんは裴子野のコメントを引きます。「忠臣に続いて弟まで殺すような皇帝に敢えて直言する臣下などいなくなることであろう」。 さて、ここで宋で更に、別なるひとりの名が挙がります。范曄と言います。後漢書を編纂した、あの范曄です。文人としての才覚はきわめて優れたものでしたが、ひとくちに言って人品がクソであったため「あいつの振るまいほっとくと最終的に処刑しなきゃいけなくなりそうですけど、あんまり処刑頻繁なのも良くないし遠方に追放した方が良くないですかね?」と言われています。文帝も迷った末「いや追放処分ですらいまは危うい」と、中央に留め置きました。どのように人材を集め、留め置くか。姚興もそうでしたが、文帝にもこのあたりで大いに悩んでいるのが感じられます。

http://www.nicovideo.jp/watch/ss46432923