拓跋晃叫ぶ! 道教華飾【夕刊シチ 6月20日号 441年07月】

拓跋晃叫ぶ! 道教華飾【夕刊シチ 6月20日号 441年07月】

資治通鑑原文1031文字(312/365位)【登場人物】・メインキャスト 5/25-劉義隆-7/2 5/30-拓跋燾-7/1 6/1-寇謙之-6/27・準メインキャスト 5/23-崔浩-6/29 5/26-劉義慶-6/23 6/10-拓跋晃-6/30【できごと】 北魏軍が北涼の残存勢力を追撃します。これによってとばっちりを食うのが西方諸国です。沮渠牧犍の弟である沮渠無諱は西方国家の一つ、鄯善を奪取、ここで独立しました。するとここに柔然が手を回し、西方の彼方で旧北涼、柔然、北魏の三つ巴が始まります。 とは言え、この年の北魏のメインは西方ではなく、中央です。既に寇謙之の影響が絶大なものとなっていたため、さらにそこに崔浩の後押しもあり、北魏の儀礼はそのほとんどが道教色に染まり上がりました。更には天にも届こうかという巨大な祭壇を建立し、天に向けての報告をなそうと言い出します。この祭壇建築には莫大な費用と期日がかかりました。この事態に悲鳴を上げたのが誰あろう、太子の拓跋晃です。拓跋晃は言います、「天に人の身で接しようなど無謀にもほどがあります! そも、そのような祭壇を築いて浪費と民の疲弊を招くぐらいでしたら、高山の頂で祭祀を執り行えば済むことではないですか!」と。このあまりにも正論極まりない発言を、しかし太武帝は無視しました。 宋では、これまでもなかなか安定していなかった蜀に更なる災厄が訪れます。仇池が軍を率いて攻め込んで来、蜀の北東部を占拠したのです。そこで文帝はすぐさま各地から迎撃軍を発しました。そしてこの戦いで仇池軍を大破、楊難当の甥である楊保熾を捕らえます。この大敗を受け楊難当は上邽へ逃亡し、北魏の庇護を受け、平城に護送されました。宋軍は楊保熾を新たな仇池の王として立てます。ところでこの楊保熾は楊玄、即ち楊難当の兄の子です。そこで宋は楊保熾を「楊玄の後継者」と位置づけました。つまり楊難当をただの簒奪者と位置づけたわけです。この動きは、ぱっと見楊難当の暴走ですが、これまで西晋や前秦が蜀を江南攻撃の起点にしていたことを考えれば、その背後に北魏の蜀攻略の企図があった、と見なすべきでしょう。ここで仇池を退けることが叶っていなかったならば、もしかしたら北魏による天下統一の芽が出てしまっていたのかもしれません。その点は文帝も理解していたのかもしれません。こんなとんでもない案件を抱えてしまっていたら、文帝も心労から病に陥ろうというものです。一応この年に回復はしたそうですが、この状態で神経をすり減らしていないはずもありません。失政にしか見えない文帝の治世後半も、こうして見ると改めて地獄だな、と思わされました。

http://www.nicovideo.jp/watch/ss46448365