拓跋晃慧眼! ただし周囲は【夕刊シチ 6月22日号 443年06月】

拓跋晃慧眼! ただし周囲は【夕刊シチ 6月22日号 443年06月】

【443年06月】資治通鑑原文1899文字(241/365位)【登場人物】・メインキャスト 5/25-劉義隆-7/2 5/30-拓跋燾-7/1 6/1-寇謙之-6/27・準メインキャスト 5/23-崔浩-6/29 5/26-劉義慶-6/23 6/10-拓跋晃-6/30【できごと】 この年も宋についてはまるで情報がありません。あるのはどこまでも北魏です。この年北魏は対仇池残党軍に対しては守りに専念すべく命じ、改めて柔然討伐の軍を動かし、一気呵成に郁久閭呉堤の間近にまで迫りました。このとき従軍していた拓跋晃が「明らかに柔然軍は動揺しています、この機を逃さず撃つべきです」と提案しますが、劉潔という側近が食い止めます。「陣にもうもうと砂煙が上がっております、敵軍は多い、ここは様子を見るべきです」と。拓跋晃が「なぜ陣の上に砂煙で兵数になるのだ、うろたえておらねばああはなるまい!」と反論するのですが、太武帝は劉潔の意見を採用。ただし、後日柔然の捕虜を捕まえたときに当時の状況を聞けば、やはり拓跋晃の提案が正解でした。このことに太武帝は歯噛みします。以降太武帝は重要な意思決定の際、かならず拓跋晃にも諮問するようになったそうです。 平城に戻った太武帝は拓跋晃の権限をさらに高め、ほぼ自身と同じレベルとしました。その補佐として崔浩のほか古弼という人物をつけました。このひとは囲碁に夢中になっている太武帝に陳情をなしたところシカトされたので囲碁の対戦相手をぶちのめすというハードコアなキャラをしており、あの太武帝をうろたえさせています。それもこれも信任の厚さゆえ、ということでしょう。崔浩もまた容赦なく太武帝に意見していたようですし、こうした強い人物を太武帝は好んで側に置いていました。 しかし、強ければいいというわけでもありませんでした。先に出てきた劉潔ははじめこそ多くの献策で太武帝に重用されていましたが、やがて崔浩と利害が衝突、対立に至ります。さらには「陛下になにかあったら弟君を奉じるべきだ」などと言って拓跋丕擁立の動きを始めます。この動きが露見し劉潔はその党与ともども捕らえられ、三族皆殺しという苛烈な処分を受けています。またこの事件を受け、拓跋丕も憂悶に暮れた末に死亡しました。  この年、仏教周りではこのような詔勅が下ります。「僧侶やまじない師を私的に抱えることを禁じる。抱えたことが露見したものは一門もろとも処刑する」と。以前の還俗命令よりも、より苛烈です。微妙に仏教組織への警戒心が見え始めており、いわゆる太武の法難が近づいてきているのを感じます。

http://www.nicovideo.jp/watch/ss46448779