通鑑1706文字(249/365位)【登場人物】・メイン 5/25-劉義隆-7/2 5/30-拓跋燾-7/1 6/1-寇謙之-6/27・準メイン 5/23-崔浩-6/29 5/26-劉義慶-6/23 6/10-拓跋晃-6/30 6/14-劉駿-7/14【できごと】 北魏では宮中における鮮卑系を含んだ旧来の習俗を除き始めました……と書かれますが、どのくらい徹底されていたかはやや怪しいです。国史の獄以前の北魏史は、記述が吹き飛んだのをいいことに北魏の史家たちがある程度権威を糊塗していそうな気もします。 前回に出てきた剛直オヤジ、古弼が再び大活躍です。筆頭奴、筆先のような頭をしていたという彼は、太武帝が狩猟に出向くと言い出したときに痩せた馬ばかりをあてがい、太武帝を激怒させました。古弼は言い返します。「肥えた馬は戦に用いるべきでしょう、狩猟時に有事が起こった時にどうなさるおつもりですか!」と。太武帝はこの反論にやられ「この者こそが忠臣だ!」と言い出します。筆頭奴どころか筆公、「クソ筆頭」から「筆どの」に呼び名が昇格するのでした。 北魏の西方では吐谷渾が分裂したため軍事介入をなしたり、改めて柔然に攻撃を仕掛けるもやはり大きな成果を挙げられずに終わっています。柔然可汗の郁久閭呉堤が死亡、子の郁久閭吐賀真があとを継ぎます。また北涼残党の沮渠無諱が死亡、弟の沮渠安周があとを継ぎました。北魏はこちらにも軍を差し向けています。この年も忙しい。 この年は、久々に宋の話も多いです。荊州を治めていた劉義季が建康帰還を願い出たため、代わりに劉義宣が派遣されています。文帝はこの不肖の弟に大任を任せたくなかったのですが、姉である劉興弟に懇願されては、聞き入れざるを得ませんでした。荊州を見事な手腕でまとめ上げた弟のあとを引き継ぎ、劉義宣も統治に頑張りました、と書かれます。しかし、直後に劉興弟が死亡。これは文帝兄弟に重苦しい陰を残します。 そしてこの年、何承天がおそらく先年に修復された渾天儀から算出される天文データに基づき、元嘉新暦を編纂しました。これは極めて精度の高いものであったようで、いままで用いられていた景初暦及びそのマイナーアップデート版諸暦を完全に過去のものとしました。また文帝は、改めて北伐の軍を立ち上げる準備として劉駿を襄陽に赴任させました。北魏にまた戦いを挑もうとか正気か!? という感じなのですが、あるいはこの空白の数年間、裏では軍事訓練が進められたのかもしれません。これは俄然、北伐が楽しみになってまいりました。檀道済こそ失ってしまいましたが、きっと今度こそ大戦果が挙がるに違いないですね!