太武の仏難! 蓋呉討伐の末【夕刊シチ 6月24日号 445年05月】

太武の仏難! 蓋呉討伐の末【夕刊シチ 6月24日号 445年05月】

【445年05月】資治通鑑原文5225文字(61/365位)【登場人物】・メインキャスト 5/25-劉義隆-7/2 5/30-拓跋燾-7/1 6/1-寇謙之-6/27・準メインキャスト 5/23-崔浩-6/29 6/10-拓跋晃-6/30 6/14-劉駿-7/14【できごと】 宋は着実に北伐の準備を進めますが、ここで大別山系の蛮が再び反乱を起こします。ただこれはすぐさま鎮圧されました。さて、劉義康は追放されたりとは言え、未だ求心力は大きいままでした。このため范曄らにより担がれそうになります。この陰謀には徐湛之も関わったのですが、その計画のずさんさを見て取ると徐湛之はあっさり情報を文帝に売り、この一派は一網打尽となり、劉義康は王位を廃され、庶人とされます。なおここで范曄の死に様がやけにくわしく示されます。ここには司馬光さんによる、同じ史書を編むものとしての愛憎が相半ばしているのを感じます。 また対北魏軍略を文帝が諮問すると、何承天が「攻めは下策です。守りを固めましょう。国境近くの民を内地に招き、隣接区域は空白地帯とするのが良いです。そして引き入れた城の守りを固め、備蓄を増やし、訓練をさせておくのが良いでしょう」と論じます。この論はきわめて詳細であるため、司馬光さんの「けど文帝はこれを守らなかったんだよなあ」感が強く出ているのを感じます。 北魏は、吐谷渾に攻撃を仕掛けて再びその勢力を山中に押し返します。しかしその裏、長安と平城の間にある町、杏城にて蓋呉と言う人物が北魏に対し叛旗を翻します。蓋呉は宋に使者を送って帰順を誓い、宋もこの帰順を受け入れます。いわゆる蓋呉の乱の勃発です。この乱はたちまち長安周辺の各郡県を巻き込み、勢力拡大。ここで参与者の一人であった薛安都は北魏軍の討伐を受けて劉宋に亡命しました。この討伐はついに太武帝自身が動かねばならない事態となり、蓋呉にわずか旅程一日のところにまで迫りますが、取り逃がします。がっかりした太武帝は一度長安に帰投。すると長安にあった仏寺がのきなみ堕落と退廃の極みに陥っているのを目撃しました。ただでさえ日頃崔浩から「仏教はクソなので除くべきです」と言われていた太武帝、ここに来てついに仏教を弾圧対象として認識。しかもこれを崔浩が煽ります。寇謙之がなんとか両名を止めようとしましたが、無理でした。長安では多くの僧が殺され、寺が破壊されます。一方拓跋晃は仏教を信奉していたため、太武帝のこの決断が揺らがないと見て取ると、せめて弾圧の詔勅の発布を滞らせ、僧侶が逃げ隠れするための時間稼ぎをしました。他方太武帝はこの年、宋に攻撃を仕掛けています。大規模衝突、待ったなしです。

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