関中鎮圧! 陸俟の才覚【夕刊シチ 6月25日号 446年04月】

関中鎮圧! 陸俟の才覚【夕刊シチ 6月25日号 446年04月】

通鑑1637文字(256/365位)【登場人物】・メイン 5/25-劉義隆-7/2 5/30-拓跋燾-7/1 6/1-寇謙之-6/27・準メイン 5/23-崔浩-6/29 6/10-拓跋晃-6/30 6/14-劉駿-7/14【できごと】 改めて蓋呉を大破し山中に追い込んだ太武帝でしたが、その足跡をたどれません。数万規模の兵を動員し、蓋呉が潜伏していたあたりを包囲しますが、さてどうしたものかと討伐諸将が思案にくれます。するとここに進み出たものがあります。高車鎮撫から長安守備に回されていた、陸俟です。先の大破で捕らえた蓋呉の親族を密かに許した上で蓋呉のもとに解き放ち、おびき出そうというのです。この計略は的中、首級を挙げることに成功しました。それにしても数万規模の包囲とか、陸俟にも「あれはたった一人でも国を傾けるに足る」と評価されていたりとか、蓋呉という人物がどれほど規格外の存在であったかが伺われます。 なお陸俟はその後、長安の西にもほど近い地、安定で立ち上がった劉超という人物の鎮圧にも充てられました。ここでは単身乗り込んで劉超の警戒心を解き、宴を楽しみ、酔っ払ったふりをしたところでいきなり軍を発して征伐するなど、そのずば抜けた知略と胆力を示します。太武帝もまた陸俟のその手腕に感嘆しました。 この年、平城では沮渠牧犍が誅殺されています。その記述によれば北魏に降伏する際宝物庫を開放して民にその宝を持ち出させ、北魏軍になにも分け前を与えなかったであるとか、その姉妹ともども毒殺の術に深く知悉しており、多くのものを殺害したため太武帝が激怒した、とあるのですが、まぁこれについては「北涼のもと王がこのタイミングで殺された」以上を下手に拾ってしまうと怪しくなる、と見たほうが良いのでしょう。 宋では杜坦という人物が紹介されます。このひとは、かの杜預の直系子孫です。杜預の子らははじめ前涼に逃げ込んだあと前秦後秦を経て武帝に引き連れられはじめて東晋入りしたのですが、そこで顕職にあずかることはできませんでした。そのあたりについて文帝との対話にて語っています。いわく「江南ではいわゆる早期南渡貴族らがその上位を独占しており、そこから出遅れた家門の者たちにはまるで付け入る隙がございません」。これは南朝の固定化した階層について鋭く切り込んだ批判であり、この発言に文帝が返答できなかったところには、文帝自身問題と考えていながらも自身では動かしようがないと感じていたのが推定できます。皇帝なのにまるで中間管理職みたいです、しんどいですね。とは言えこの階層が将来北朝、ことに孝文帝にとってのひそかな憧れになるのですからわからないものです。

http://www.nicovideo.jp/watch/ss46459900