通鑑942文字(318/365位)【登場人物】・メイン 5/25-劉義隆-7/2 5/30-拓跋燾-7/1 6/1-寇謙之-6/27・準メイン 5/23-崔浩-6/29 6/10-拓跋晃-6/30 6/14-劉駿-7/14【できごと】 北魏では仇池での反乱が起き、この反乱の対応に追われています。ということはもちろん宋も関わっていたことでしょう。仇池が北魏のもとで安定されて困るのは、他ならない宋です。こうしたマージナルな地域では、大勢力の間にてショックアブソーバーとしてすり潰される多くの人々がいるのだろうな、と思うと、ちょっと腰を据えて調べてみたい気もします。ちなみにこの乱にあたっては太武帝の娘が「一郡県の妻たるよりも一国の母となる方が良かろうが!」と乱を煽っており、その罪により誅殺されています。うーん、ロック。 この他太武帝は軍綱紀の緩みを摘発の上処断したり、城壁建造の進捗を徹底的に糾弾したりと、このあたりを見ると太武帝の手腕にあまり「統治」がなかったのではないか、という気がしてなりません。後世人の観点から様々に漢化が進められた、と言ったように語られることも多い北魏ですが、結局の所孝文帝の時代まで鮮卑式支配のままであったのではないか、という気もします。 宋では、ここで経済政策が論じられます。漢の武帝の時代以来流通されていた銅銭、いわゆる五銖銭を煮溶かして銅の量を減らし、貨幣として流通させようという詐欺犯罪があまりにも当たり前のように横行しすぎたため、その対策として二種類ある貨幣のうち大きい方を小さい方の二倍の価格扱いとして取引させようとしたのです。劉義恭がなしたこの提議に対して、臣下からは「市場をより混乱させて、貧富の差を拡大させるだけです!」と悲鳴が上がったのですが、文帝は構わず施行させました。 この年には、他にも「文帝の弟たちのうちで最も優れた手腕の持ち主であった」劉義季がアルコール中毒で死亡したり、この期に及んで劉義康を担いで乱を起こそうと言い出したものが処断されたりと、どこまでも文帝の弟運のなさが強調されます。文帝の弟に対する資治通鑑の扱いからすると弟ランキングは季→康→恭→宣と言った感じであったようで、ここで最上位が失われました。聡明な人物のアル中死などほとんど自殺のようなものです。残された弟たちも、なかなかろくでもない末路が待ち受けていそうです。 最後に、ここの話をしておきましょう。彭城を守る武将、王玄謨が王を当地に派遣してほしい、と上奏しました。いってみれば「もっとも北魏を感じている人物が不穏な空気を察した」となります。ではこののち、事態はどう転ぶのでしょうか。