通鑑534文字(341/365位)【登場人物】・メイン 5/25-劉義隆-7/2 5/30-拓跋燾-7/1 6/1-寇謙之▲・準メイン 5/23-崔浩-6/29 6/10-拓跋晃-6/30 6/14-劉駿-7/14 劉彧-7/22【できごと】 この頃に寇謙之が死亡していますが、資治通鑑はそこに触れていません。「この人物を大きく扱う必要などない」という意向が示されているわけです。魏書釈老志を見るに、のちの道教の基礎を築いたと言ってもいいくらいの人物ではあるのですが。確かに太武廃仏に対して寇謙之は反対の立場をとっていたわけで、その死がその後の展開に影響したかと聞かれれば、それほどでもないのですよね。 西域には引き続き高昌に沮渠安周がいますが、それ以外の動乱については一通りの始末がついた、と書かれます。沮渠安周にしてもうかつに動けるだけの力はもはやないわけですし、脅威ではない、と認識されていたのでしょう。太武帝は改めて柔然討伐にでますが交戦らしい交戦も無し。持ち寄った兵糧については前線の城への援助物資ということにして撤収しました。その後改めて太武帝は討伐軍を立ち上げましたが、やはり空振りでした。この頃の柔然が、北魏との対立を回避する方向で動いていたのが感じられます。それにしても北魏にとり柔然がどれほど脅威なのかは、この討伐件数を見れば明らかなのですが、こんなまともに功績も挙げられない討伐に従軍させられた配下将らにしてみれば、たまったものでもないのでしょう。 宋では劉駿が徐州刺史に任じられました。これはおそらく、王玄謨よりの要請に応えた形だったのでしょう。これは大規模な軍事行動を起こすためのトリガーという意味合いもあります。北魏の河淮エリア攻撃はしばらく資治通鑑に出ていませんが、その分入念な準備がなされていた、とも解釈できそうです。また劉駿の弟のひとり、劉彧も王に封じられました。劉彧は439年生まれですから、王への封爵がおよそ十歳をひとつの契機とされていたのが推測できます。分別のつく年になった、と言う認定なのでしょうか。ちなみにこの劉彧が、のちの明帝です。また前年に施行された大銭の小銭二枚扱いというお触れは不便にすぎるということで一瞬にして廃されました。前年にツッコミを入れた人物、何尚之はこの流れを一体どのように見ていたのでしょうか。 なお、後々に入れようがないので、ここに書いておきましょう。北魏では宋が蓋呉を支援していた、という情報を掴んでいました。この利敵行為に対し、太武帝は表向きさしたるリアクションをとらないまま、内心では怒りを募らせていました。当然このことが、後年の伏線ともなってくるわけです。