通鑑782文字(332/365位)【登場人物】・メイン 5/25-劉義隆-7/2 5/30-拓跋燾-7/1・準メイン 5/23-崔浩-6/29 6/10-拓跋晃-6/30 6/14-劉駿-7/14 6/27-劉彧-7/22【できごと】 この年の大きな動きとしては、二点。北魏による柔然の沈静化、沈慶之による蛮の鎮圧、です。何度同じこと書かされるんでしょうね。この両勢力は一点を共有しています。組織だった軍の徹底追撃及び撃滅の叶わない地勢に割拠していること、です。このためいくら征伐をかけても根絶がしきれないわけであり、ならば基本的に対症療法的に応じねばならないわけです。ナメられない程度に威圧の上友好的外交、というわけにはいかないようで、北魏も宋も大変です。 ここしばらく資治通鑑では「北魏に南侵の気配あり」と載ります。この記述、不思議なのです。というのも王玄謨は先日の上奏に加え、しばしば「北魏を討つならば今です」と進言を繰り返していたようなのです。間もなく攻めてこようと言うときに「今が好機」というのも不思議な話です。ともあれ文帝も王玄謨の発言を受け「霍去病が狼居胥山にて匈奴を撃退したと記念碑を建てた時のような勢いではないか」と言い出しています。臣下らも「今こそ天下を併せ、泰山にて封禅をなすときですな」とおべんちゃらを言っています。そして軍資を前線に集め始めました。 軍資集積先のひとつ、襄陽には、沈慶之がいました。引き続き日々を蛮制圧に費やしています。これまで平原にて蛮が出張るのを迎撃する消極姿勢をとっていたのを一転、山の中にまで踏み込み、大破したのです。多くの捕虜を獲得したため彼らについては建康に送り込み、自身は山中にいくつかの砦を築きました。なにせ結局の所、山間の機動力では到底蛮に敵いません。このため対応をしやすくする準備を整えたところで、襄陽に引き返したのです。しかしこれで引き返してみたら、沈慶之の目前に全く理解に苦しむ量の軍資が届いていたわけで、いったいこのとき沈慶之はどのようなことを思ったことでしょうか。 対する北魏では、柔然を改めて完膚なきまでに叩きのめした、と書かれたあと、太武帝が梁川に出向いた、という話が載りました。具体的な場所はうまく比定しきれませんでしたが、淮水あたりのようです。これは劉宋が臨戦態勢を示し始めたから先手を打ちにきたか、それとも単純に攻勢を仕掛けにきたか、一体どちらなのでしょう。正直なところ情報が少なすぎて、「いよいよ改めてぶつかるらしい」以外のことをうまく書ける気がしません。ともあれこの情報を受け、文帝も劉駿や王玄謨らに命を下し、北魏軍迎撃準備のため動き始めるのです。