太武撤収! 太子は憂卒【夕刊シチ 6月30日号 451年1月】

太武撤収! 太子は憂卒【夕刊シチ 6月30日号 451年1月】

【451年01月】資治通鑑原文3077文字(149/365位)【登場人物】・メインキャスト 5/25-劉義隆-7/2 5/30-拓跋燾-7/1・準メインキャスト 6/10-拓跋晃▲ 6/14-劉駿-7/14 6/27-劉彧-7/22 宗愛-7/2【できごと】 瓜歩にまで出張った太武帝は臣下に褒賞を与えたり、沿岸にたいまつをともしたりします。こうしたパフォーマンスを宋側では撤収準備と認識、そして実際に太武帝は軍をまとめ上げ、引き上げを開始しました。この事態が何を引き起こしたか。文帝の統治への不安です。すると誰に輿望が集まるか。追放されていた劉義康でした。ここでも建康では再び乱が起こるのではないか、という噂が立ちます。というわけで、ここでついに劉義康が誅殺されました。 さて、太武帝です。途中の城をほぼ無視した、ということは、帰路でも戦いが待ち受けています。しかし劉義恭をはじめとした多くの将が見送ることを選択。その中で気炎を吐いた人物がいました。臧質と言います。武帝正妃の臧氏、その甥です。これまでも対北魏戦線で活躍はしてきましたが、ここでは沈璞の守る盱眙に援軍として駆け付けたところ、大挙して押し寄せてきた北魏軍に出くわします。威圧してくる太武帝に、しかし臧質は挑発で返し、そのまま堅守にて北魏軍に大損害を与えました。そこに南方からの救援が動き始めたということで、北魏軍は撤収。沈璞および臧質は武勲ありとたたえられ、逆にこの事態を引き起こした王玄謨は失脚しました。文帝は自ら瓜歩に出て慰問したのち、この戦時体制を解除としました。 なおこの戦いにおいて北魏は宋の国土で盛大な虐殺および略奪を働いた、と書かれますが、ここで司馬光さんは「北魏軍が赤子の死体をいたぶって遊んだ」という、宋書にも南史にもない出処不明の余計な情報を載せます。し、そういうところに限って十八史略も嬉々として転載してきます。そういうことするから疑われんだぞあんたら。一方で北魏側の損耗も甚大であり、太武帝のこの軍役は大いに非難された、とも書かれます。 この戦いで、元嘉の治は衰退したと書かれるのですが、対する北魏もやばいです。このころ太子の拓跋晃は宦官の宗愛と対立しており、その一派を糾弾せんと計画したのですが、宗愛が先手を打ち、太子の一派を太武帝に讒言、誅殺させることに成功しました。この怒りは拓跋晃の元にも及んだようで、拓跋晃は憂悶のうちに死亡します。その死後太武帝は太子に罪がなかったことを知り、大いに後悔したそうです。さて、では太子を陥れた宗愛は、こののちどうなることでしょうか。もう、どう転んでもろくなことにはならなさそうですね!

http://www.nicovideo.jp/watch/ss46482822