太武弑さる! 文帝歓喜【夕刊シチ 7月1日号 451年12月】

太武弑さる! 文帝歓喜【夕刊シチ 7月1日号 451年12月】

【451年12月】資治通鑑原文3322文字(132/365位)【登場人物】・メインキャスト 5/24-劉義隆-7/2 5/30-拓跋燾▲ 蕭道成-8/1・準メインキャスト 6/14-劉駿-7/14 6/27-劉彧-7/22 6/30-宗愛▲【できごと】 拓跋晃の死亡後、その嫡子である拓跋濬を太武帝は寵愛しました。このため太武帝は拓跋濬を皇太孫のような扱いをし始めました。が、その前にやらねばならないことがあります。宗愛の始末です。それはもちろん宗愛にもわかっていたことでした。なので太武帝、さくっと宗愛に殺されます。まあ相手は宦官ですので、やりようはいくらでもあった、ということなのでしょう。こうして華北に覇を唱えた英雄帝はあっけなく舞台より去りました。ただし宗愛は太武帝の末子であった拓跋余を立て、敵対分子を殺してまわろうとしますが、うまく行きません。結局拓跋余をも殺したところで陸俟の子、陸麗らの計略により捕らわれ、一族もろとも殺されました。こうして拓跋濬が即位します。文成帝です。 宋では文帝が北魏により受けた損害を修復させつつ、改めて補佐役をひとり任じます。五臣の一人であった王曇首の子、王僧綽です。すると資治通鑑はここに突然「文帝を補佐した人物」を紹介します。第一期が王華、王曇首、殷景仁、謝弘微、劉湛。第二期が范曄、沈演之、庾炳之。そして第三期が江湛、徐湛之、何瑀之、王僧綽とのことです。突然こんなのを書き始めるなんて、司馬光さんなにか嫌な予感があったんでしょうか、ねっ! 太武帝の死を聞いた文帝、大喜びです。今こそリベンジのチャンス、と北伐を開始します。この北伐は徐州方面から蕭思話、荊州方面から魯爽ら、そしてなぜか潼関に向け臧質が向かわされたと書かれますが、潼関は許昌や洛陽を抜いたさらにその先にある長安への玄関口ですので、これは襄陽から長安に直行する細い山道の合間に築かれていた武関を指すのではないかな、と思います。ただしこの北伐も、結局は北魏軍を攻め落としきれずにありました。なおこの軍役において、漢中から一人の武将が長安に向けて出発しています。その名は蕭道成。蕭承之の子にして、後の南斉高帝です。 一方、北を望む文帝の足元では、しばしば文帝より叱責を受けていたという劉劭が、弟の劉濬とともに、父親殺しの呪いを掛けようとしていた、と明るみに出ます。この事件に対し文帝は激怒しましたが、このときには処罰がなされませんでした。ええ、このときには。 またこの年、吐谷渾慕利延が死亡。甥の吐谷渾拾寅が立ちました。吐谷渾もマージナルな国としてもろもろ大変そうです。

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