【452年12月】資治通鑑原文9019文字(15/365位)【登場人物】・メインキャスト 5/24-劉義隆▲ 7/1-蕭道成-8/1・準メインキャスト 6/14-劉駿-7/14 6/27-劉彧-7/22【できごと】 この年の資治通鑑記事は厚いです。ひたすらに厚い。何がそんなにって、文帝弑逆です。ところで資治通鑑とは「政に資するための教訓を載せる書」という属性なのですが、「政変が起こったこと」そのものを厚く書いてもあまり意味はないと思うのですが、いかがお考えでいらっしゃいますでしょうか司馬光先生。 先に北魏を見ておきましょう。なにせ即位した文成帝は12歳。ならばそこにある意思決定は「宗愛の余燼を除く」以外拓跋晃の府のスタッフによるものと見てよいかと思います。つまり仏教弾圧の中止、陸俟、源賀、高允の重用、不平分子の殲滅です。改めて道武から文成に至るまでの元首の恵まれ方が半端ないですね、北魏。 そして元首の後継に恵まれていない宋では、文帝が劉劭の廃太子廃位を徐湛之や江湛と話し合っていました。すると劉劭は兵を率い、この三人が話し合っているところに乗り込み三名を殺害、帝位を僭称しました。宋書では劉劭を元凶と呼んでいますので、以降それに倣います。元凶は僭称後、王僧綽や多くの宗族たちも殺します。 こうした事態に完全に乗り遅れていたのが、文帝よりの寵愛も薄かったため常に外地に出されていた劉駿でした。その下には、沈慶之が配属しています。元凶は沈慶之に劉駿暗殺を命じますが、沈慶之はむしろ怯える劉駿に密命の手紙を突きつけ「伸るか反るかですぞ!」と劉駿を決起させます。すると、決起を聞いた建康の要人らもみな劉駿に呼応。これでは戦いにもなりません。元凶は戦力を喪失、建康城に立てこもりました。劉駿はこれをもって即位します。孝武帝です。その後さらに攻撃を加え、ついに元凶を捕縛、誅殺しました。 こうして始まった孝武帝の治世ですが、孝武帝が「直言を募る」と言って来たので本気にした周朗という人物が凄まじく長大、すなわち司馬光さん的に正論極まりないと評価していたのであろう上奏をなしました。ら、孝武帝は却下。北辺運営は諦めろとか、贅沢するなとか、ひとを好みで登用するなとかいった内容であったのですが、これは言い換えれば、このあとの孝武帝が周朗の言葉の真逆を働き始める、ということでもあるのでしょう。宋の衰退とともに、すでに蕭道成のチラ見せもありましたし、司馬光さん、どうやら南斉に向けての助走を始めたようです。