なにもない 宗族は潰す【夕刊シチ 7月4日号 454年11月】

なにもない 宗族は潰す【夕刊シチ 7月4日号 454年11月】

資治通鑑原文457文字(346/365位)【登場人物】・メインキャスト 7/1-蕭道成-8/1・準メインキャスト 6/14-劉駿-7/14 6/27-劉彧-7/22【できごと】 めちゃくちゃ薄い年です。まぁどちらも状況再編に大忙しだったのでしょう、そうするとどうしても大きな動きとして書き出しづらそうなのはわかります。個人的にはこう言う年ほど厚く書いてもらったほうが見えるものも多くて嬉しいのですけれど。ひとまず北魏では車騎大将軍・楽平王の拓跋抜、即ち太武帝のいとこが誅殺されています。文成体制へのまとめ上げが進んでいる印象です。 宋では、武帝文帝の時代からその武幹を遺憾なく発揮するも文帝にその的確な献策がまるで取り上げられず、結果北魏の南伐をただ見届けることしか許されなかった名将、沈慶之が老齢を理由に引退を申し出ました。孝武帝からしても即位の元勲とも言うべき人物ではありますので引き留めますが、ここで沈慶之は数十回もの上表のうえ、孝武帝の面前で号泣し、ようやく引退を認められます。その後孝武帝は改めて沈慶之を復帰させようと、一度引退するも再び取り立てられた何尚之を遣わして要請させましたが、沈慶之は「何公の真似は私には叶わぬ所です」と、何尚之を恥じ入らせています。ちなみに何尚之は復帰したときにも南朝貴族たちから「よくもヌケヌケと復帰できたものだ」とからかわれていたりと、お国のために働いていてもこのように言われてしまうとは、なかなか陰湿で良いですね! さらにこの年、孝武帝の弟のひとり、「その凶暴さで知られていた」劉渾が謀反を企んだ、ということで王から廃位され、自殺を求められました。文帝の時代に「肉親ですら殺すものに直言をするものは少なくなるだろう」と言った評語がありましたが、この劉渾の動きはそれがもう一段進んだ印象があります。つまり、実際に劉渾が凶暴であったかどうかと言うよりも、「あの兄帝のもとでどこまで命を長らえられるか甚だ心許ない」ということです。特に、前年孝武帝は嫡子の劉子業、のちの前廃帝を太子に据えていました。では、孝武帝在命時であればともかく、その息子の時代にどのように見られかねないか、ということまでも込みで宗族は振る舞わねばならなくなるわけです。その意味で、劉渾につけたカギカッコつき留保も、どの程度かっこを外すことが許されそうでしょうか。 時々謎のおいたこそやらかしますが、資治通鑑は基本的に先行史書が著した内容しか書けません。賈南風時代もそうでしたが、こうして全然書かれなかった時代に「何が歪んだのか」を、うまくたどってみたいところです。もちろんこれはできる限りの史料批判を踏まえた上で、と言うことにもなるんですけれど。

http://www.nicovideo.jp/watch/ss46491748