馮氏立后! 北燕の遺児【夕刊シチ 7月5日号 455年10月】

馮氏立后! 北燕の遺児【夕刊シチ 7月5日号 455年10月】

【455年10月】資治通鑑原文909文字(320/365位)【登場人物】・メインキャスト 7/1-蕭道成-8/1 馮太后-8/10・準メインキャスト 6/14-劉駿-7/14 6/27-劉彧-7/22【できごと】 前年に比べると内部再編の動きが見えやすい年になりました。ここで少し整理をしておきましょう。宗族たちが大きな力を持つことが危うい、とは言ってみても、それでもやはり頼るに値するのは血族なのです。孝武帝にとっての祖父世代に当たる武帝のまたいとこ、劉遵考は有能でこそありませんでしたが、なにせ武帝即位前から付き従う人物です。このため常に肩書としては重んじられています。父親世代では、唯一生き延びていた叔父の劉義恭。武帝の弟二人の家督を継いだ系統はともに元凶の弑逆に伴い没落していましたので、この両名以外ともなれば、補佐足り得るのは孝武帝の弟たちくらいのものです。しかしその弟たちも、少し下からの突き上げがあれば皇帝の座を狙ってくるでしょう。こうした背景もあってか、孝武帝は宗族の実権削減に乗り出しました。 また北魏に抑え込まれていた仇池を牽制するためにも、仇池公家の正嫡にあたる楊元和及びその宗族にあたる楊頭にそれぞれ官位を授け、西方の守りとするべく企図しました。ここで王玄謨が、才に優れ年長である楊頭を統治の主宰とすべく願い出ましたが、孝武帝は却下します。なんというか、「その流れの先になにがあるか、もう皆さんご存知かと思いますが」とでも言わんばかりです。 ところで宋の時代、地方長官にはだいたい皇族が出ることになっていたのですが、なにせ武帝以来どうしても皇族は年少のものが多かったため、その代行人にどうしても権力が集まる、と言う悪弊が地方統治にあったそうです。この年豫州刺史、つまり対北魏前線長官となった宗愨はこの悪弊に激怒し、代行人の権限を破棄しました。 北魏は薄いのですが、ここで見過ごせない記述が現れます。文成帝の皇后に旧北燕の王族出身の馮氏がついた、というものです。太子の拓跋弘は生まれており、その母である李貴人は子貴母死の慣例に則り死亡済み。ということは、ここから下手に息子さえ産まなければ、馮氏が子貴母死に伏されることもありません……ええ、うっかり政変にでも巻き込まれさえしなければ。その名は伝わっていませんが、魏書にはこう書かれます、「文成文明皇后馮氏」。そう、後の世に言う馮太后が、ここで文成帝の正妃の座を獲得したのです。この先に待ち受ける運命は下手な政変よりも波瀾万丈でこそあるのですが、彼女はどこまでその運命を予期していたでしょうか。ともあれ蕭道成と馮太后、次の時代の主役が、ついにここで出揃いました。

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