吐谷渾苦衷! 北魏迫る【夕刊シチ 7月9日号 459年08月】

吐谷渾苦衷! 北魏迫る【夕刊シチ 7月9日号 459年08月】

通鑑484文字(345/365位)【登場人物】・メイン 7/1-蕭道成-8/1 7/5-馮太后-8/10・準メイン 6/14-劉駿-7/14 6/27-劉彧-7/22【できごと】 特に大きな動きがありません。西方戦線でのトラブルがあったぐらい。北魏が北陰平を攻撃した、とありますから、この頃仇池戦線は宋が押し返していたのが伺えます。言ってみれば仇池北部なんですよね。西方戦線は情報が飛び飛びなので、気付けば守将が死んでしまったりでなかなか隔靴掻痒の感が否めません。華陽国史もこの時代は全くフォローしてくれていませんし。 このほか、吐谷渾拾寅が宋と北魏のどちらからも爵位を受けていたことを北魏より非難され、攻撃を受けました。これは吐谷渾にとってみればたまったものでもないですね、どちらかに付くなどと言うのはあまりにもリスクが大きすぎる。このあたりは以前にも紹介した春秋時代に鄭が晋と楚のはざまで蝙蝠外交をしなければならなかったことと全く同じ状態である、と言えるでしょう。とは言え、ならば逆の話もできるわけですね。北魏や宋からしてみれば、いくらでも吐谷渾の不義を糾弾する名目が立っている、と言うわけです。 これはまた、青州問題とも同軸と言えるでしょう。長く国境線を横たえさせている両国間の領土係争は、その東端および西端よりの削り出しが最適解、ということです。そしてこのとき仇池を押し返されていたともなれば、北魏は更にその大外より削り込みにかからねばならない。この手立ては太武帝よりも遙かに迂遠にして周到とは言えそうです。この当時の北魏トップは常英・尉眷・陸麗。文成帝自身にここまでの判断は下せないでしょうから、彼らあたりの引いた絵図として展開していそうな気がします。それにしてもこの当時のトップを調べるために二十五史補編に当たってみたのですが、文成帝即位ごろのタイミングで北魏のトップがのきなみ殺されまくっていることに引き笑いが浮かびました。どういう政治力学が働いているのか皆目見当がつかないです。皇族の誰かによる意向があったのかもしれないですが、このあたりを史書から引き出そうとしても妄想しか手立てがなさそうです。 宋では晋の南遷以来建康城の祭壇の位置がおかしかったとして祭壇の位置を正しい場所に切り替えた、皇后と皇太后が儀式を執り行った、といった話が載ります。と言うか、そのくらい。こうした辺りには常々考えている「南朝が武力的不利を権威構築で対抗しようと試みた」仮説で考察したい内容だな、とは感じています。とは言えどちらかというと気になるのは、劉誕誅殺後の政界再編がどのようであったか、なんですけどね。南北どちらも、情報不足に悶々とします。

http://www.nicovideo.jp/watch/ss46522152