名臣高允! しかるに宋は【夕刊シチ 7月7日号 457年09月】

名臣高允! しかるに宋は【夕刊シチ 7月7日号 457年09月】

【457年09月】資治通鑑原文2028文字(226/365位)【登場人物】・メインキャスト 7/1-蕭道成-8/1 7/5-馮太后-8/10・準メインキャスト 6/14-劉駿-7/14 6/27-劉彧-7/22【できごと】 この年は司馬光がおそらく大好きで仕方のないであろう人物が大きく取り上げられます。その名は、高允。文成帝が贅沢や遊興にふけろうとしたら盛大なお叱りを決めて文成帝を縮み上がらせるも、しかしその文成帝からは極めて重んじられていました。ここで高允の諌め方は直接文成帝と面会し、人払いの上で切々と告げる、というものでした。こうした諌言スタイルが気に食わない他の臣下らが高允を糾弾しましたが、すると文成帝が「そなたらは父の過失を公然とあげつらうのか? そうはすまい。内内にて、ただし切実に告げるであろう。それが高允の諌言なのである」と反論しました。 ここから高允がどれだけすぐれた人物なのかを他の人物の証言も交えて語られるのですが、ここで司馬光さんがとんでもない話を暴露します。「魏の百官には禄がなかった」というものです。この企画ではすでに紹介したところでもあるのですけれど。ともあれ、これにより国の仕事以外に別に貨殖の術がないものは貧乏暮らしを強いられるため、高允の家は貧乏であった、とつながるのですが、それはそれとして太武帝時代の各地における統治不備の原因ってこれじゃないの感があり、そこをどうにかしようよと思わされます。というわけで、将来この俸禄問題も対応されるようになります。 ところでメタ情報ですが、資治通鑑で文字数の薄い年は一つの巻にまとまっています。つまり読者的には前回の孝武帝のクソっぷりから途切れることなく文成帝と高允の蜜月を浴びるわけです。南北の国にどんな感想を覚えるかお察しですね! またこの年、宋では僧侶が反乱を目論んだため僧侶を還俗させる、と言った出来事が起こっています。ここには少し補助線を引いておきます。資治通鑑ではまともに書かれていませんが、宋書礼志によれば、宋は武帝、及び文帝が仏教の信奉者でした。このため宋では仏教が手厚く保護されていたのですが、孝武帝にまで代が下ると、どちらかといえば三国時代にいた呉の武将、蔣子文への信仰が厚くなっていたようなのです。司馬光からしてみれば仏教ですらだいぶ耐え難かったはずですのに、江南のうさんくさい神を信奉するなどと言い出している孝武帝以降の評価は嫌でも下がってしまうのでしょうね。 この年は両国が衝突しつつも、その内部では充実と退廃という相対する状況が描かれています。こうした出来事が、また将来のトラブルを予見させています。

http://www.nicovideo.jp/watch/ss46526513