通鑑3672文字(110/365位)【登場人物】・メイン 7/1-蕭道成-8/1 7/5-馮太后-8/10・準メイン 6/14-劉駿-7/14 6/27-劉彧-7/22【できごと】 文成帝になってから北魏の軍事は落ち着いていたと言われますが、まあ道武太武と比較してしまえばほとんどの皇帝が落ち着いた、になるでしょう。文成帝も柔然討伐に出ていますし、この年には改めて青州に攻撃を仕掛けてもいます。まあ柔然というTheランドパワーが北魏領を狙わないはずもないので、対柔然戦略は常にのしかかり続けるのでしょう。 迎え撃つ宋では、その前に、と琅邪王氏の人物が処刑され、ここぞとばかりに司馬光さんが沈約や裴子野の史論を引いて「ほらほらだから才覚じゃなくて出自で採用を行うのって良くないじゃーん」と主張しています。とはいえ沈約にせよ裴子野にせよ家門的には十分に上澄み層なのですよね。まあ、仕方のないジレンマではあります。 というわけで、青州戦線です。この戦いでは顔師伯という将が活躍し、北魏軍を退けています。柔然が北魏を、北魏が宋を狙うというこのドミノ倒しは、宋側がこの段階ではまだ受け止め、跳ね返すだけの力があったため防げていました。とはいえこれも時間の問題、といった印象です。 なにせ中央では、引き続き孝武帝が統制をグズグズにしています。ここでは名門を抑え込んだ上で自身の子飼いに枢要を任せとしたところ、子飼いたちが収賄を好んだため財と権勢が彼らのもとに集まった、と書かれます。こうした風潮に抵抗した人物もいました。顧覬之です。この人が気骨の人、として強調されているのに司馬光さんの主張のほどがうかがえます。 さて、前年に広陵に出された孝武帝の弟、劉誕でしたが、ここでついに謀反嫌疑がかけられ、ました。掛けられたというか、そもそも孝武帝から命を狙われている以上自衛するしかありません。たとえその先に滅びが待ち受けているとしても、です。この辺りは下手に史書の記述を拾いすぎないほうがいいのでしょう、権勢の中枢近くにいる、立場の近い者たちは否応なしに利害が対立する、とすべきだと思います。つまり両名の衝突は必然であった、というしかありません。ここまで孝武帝の振る舞いに対して散々に諌めの言葉を投げていた沈慶之でしたが、この対立に対しては一貫して孝武帝側についているのも、そうした理由なのかもしれません。劉誕はここで殺され、孝武帝は劉誕及びその係累の生首を積み上げて塔としました。いわゆる、京観です。宋書、そして資治通鑑は、どこまでも孝武帝を悪として強調したいようですね☆ こちらとしては「単純に善悪に収斂させんなや」とは申し上げたいところです。