自毀淮北【夕刊シチ 7月16日号 466年03月】

自毀淮北【夕刊シチ 7月16日号 466年03月】

資治通鑑原文9247文字(11/365位)【登場人物】・メインキャスト 7/1-蕭道成-8/1 7/5-馮太后-8/10・準メインキャスト 6/27-劉彧-7/22 蕭賾-8/14【できごと】 建康の明帝のもとには、劉子勛側の勢力につく人々の家族も多くいました。明帝は彼らの罪を問わず、また指揮系統を殷孝祖という将のもとに一本化します。しかしながら、初戦でこの殷孝祖が戦死。ともなれば副将が主将に繰り上がるのが流れです。通常ここが紛糾するのですが、明帝軍に限っては江方興にスムーズに軍権が移譲されました。このため、次の戦いでは初戦の勝利におごっていた劉子勛軍を大破し、主導権を握り返します。 ここで始まり、終わる戦いですから、とっとと総覧してしまいましょう。明帝軍は江方興のもと、沈攸之という将が前線総督としてよく兵らを取りまとめ、秩序だった軍略を展開します。対する劉子勛軍にもまた劉胡という叩き上げの名将がいたのですが、すでに書いたとおりその上層部はろくな統率力をもっていません。つまり頼りにならない上層部を背負いながら統率の取れた敵軍に立ち向かわねばなりませんでした。局地戦にこそ勝利しますが徐々に戦局不利に追い込まれ、ついには戦場放棄。これがきっかけとなり劉子勛軍は大混乱に陥り、ついには劉子勛も捕らえられ、斬首。その首級が建康に送られると、各地の劉子勛派も次々に投降。そうした中で劉胡は酒を一杯かっ喰らったのち、自刃して果てました。その首級はやはり建康に送られています。ちなみにこの戦いの中で蕭道成、およびその嫡子である蕭賾が明帝派として戦っています。 こうして明帝は即位早々のピンチを乗り越えることができたのですが、これは危うい成功体験ともなってしまったようです。まず、建康で何をやったか。孝武帝の子らを皆殺しとしました。ここは残虐無比ですが、明帝のように兄の子らにもろもろ追い詰められたことを思えば、心情的に理解できなくもありません。しかし、問題は次です。劉子勛派の中には薛安都をはじめとした北方守備隊もいたのですが、明帝、彼らを許すのではなく威圧的な対応をとってしまいます。このため薛安都らは北魏側に寝返り、結果としてこれまで何とか跳ね返してきていた青州への北魏侵攻が、この年あっさりと成功してしまいます。 この結果を受け、資治通鑑は裴子野の史論を引きます。いわく「明帝は即位当初こそ誠実な姿勢によって人心を得て天下を平定したが、勝利後は驕慢となり、そのために本来保持できたはずの北方領土を失った」と。一般的には、この明帝の失策が宋を衰退させた、と評されます。もちろんその種まきは孝武帝だと思いますけれど。

http://www.nicovideo.jp/watch/ss46536023