通鑑902文字(321/365位)【登場人物】・メイン 7/1-蕭道成-8/1 7/5-馮太后-8/10 7/17-拓跋宏-8/19・準メイン 6/27-劉彧-7/22 7/16-蕭賾-8/14【できごと】 北魏の浸透軍略が進みます。この年には東陽にまで侵攻したそうです。山東半島の根本、泰山の北東。青州の奥地と呼んで差し支えありません。宋は海路づてでの支援を送ろうとしましたが、間に合いません。各地で宋の領域が削減されますが、許昌だけは撃退に成功しています。許昌を抜かれると襄陽に向かうルートも生まれてしまうので、宋も必死だったのでしょう。 しかも悪いことに、交州、宋の南端でも乱が勃発します。当地では中央から派遣されていた官僚が殺されたりもしつつ、最終的には鎮圧。これで規模が拡大していたらどうなっていたか、と言う感じですね。 そして、この頃の中央人事についての紹介がなされます。もともと南朝といえば武帝が南渡貴族らによって即位したのですが、文帝、孝武帝、明帝と代がくだるに従い、徐々に名族とは絡まない人物がその枢要に立ち始めていました。中でも明帝は、自身を擁立した派閥がほぼそうした庶民とも呼びうる人物たちであり、しかも孝武帝の時代と同じように、こうした人物はみずからの権力を確保するためにも貨殖に励みます。こうしたところを見ていると名族たちは「もともと確かな生活基盤がある」からこそいわゆる賂にも強かった、と言えるのかもしれません。もちろん、どちらがいいか、とは簡単に言いきれる話でもありませんけれど。ただ当たり前ですが、こうした積み重ねで得る力は到底権威と呼べるものでもありません。ともなればこの時代、南渡貴族らは中央を見限り、自身の経営する地にて貨殖を進め、建康には申し訳程度の人材を送るようにしていた、のかもしれません。こうなってくると正史よりも地誌の方に有力な世族たちの名前が残ったのかもしれませんね。まあ地誌はのきなみ滅んでいますけど。とにもかくにも元嘉年間からこのあたりに至るまでつくづく実感するのは「まともにこの当時の状況を把握できる史料が存在していなさそう」です。隋の時代までは結構残っていたみたいなんですけど。 北魏については、淮北戦線のイケイケぶり以外だと中央の人事再編が細々と載る程度です。この中で見過ごせないのが、昌黎王の馮熙が太傅となった、と言うもの。馮熙は馮太后の兄に当たります。これはもう、かなり馮氏による権勢がどぎつくなってきた、ということができるでしょう。献文帝から見て、これはどのような状況だったのか、と思うと空恐ろしいですね。